9/18

毎日毎日誰も読みもしない日記を書き続けて1年がたった。
わたしも読まない。わたしが読まなかったら誰も2度と読まない。書いたという記録がそこにあるととは、生きていたということ、存在していたということ。
それなのに生きているという実感は28年経っても湧かない。
必要ないのにわざわざモノレールを使って目的地に向かったのに揺れで酔った。手前の階段じゃなくてわざわざ遠くのエスカレーターまで歩く。
書く必要なんてないけど、読み返すとこの時の瞬間が蘇ることがある。
読み返す必要なんてないけど、この瞬間だけわたしが点ではなく線であると感じることができる。
この恥を具現化したような人生が線だと分かる瞬間、それは一種の絶望だったりする。
過去の点と今の点を繋ぎ合わせて、この線はどこに向かうのだろうと憶測をする。明日も明後日も雨が降る。5年後も10年後も。
過去は変わらないけど、解釈は変えられる。その時に私が犯した罪をチャラにしてないといいなと思う。傷つけた誰かを軽視しないように。その傷をきちんと傷にしておきたい。
文章の中で生きる人間、だれかの文章の中で生かされている私。そうやって文章の中で生かし合ってる関係がこの世には沢山あるのだろう。
それは、わたしがいなくなっても、あなたがいなくなっても形として残り続ける関係。凄すぎる。それなのにわたしは誰かの記憶の中で生きたい。
沢山の人を心の中で生かしている人間がいる。それに時々救われる。わたしもそうしたいけど、わたしの記憶はどんどん抜け落ちていくので書くしかない。書くしかない。
でもこの書いた記憶さえもどこかに落としてしまうと知ってる。どんなに苦しかったことも記憶からなくなって記録した事さえも忘れて、それでも切り付けられた傷だけが残って、何故自分が脚をひきづって歩いているかも忘れて世界を恨む。
どこにだっていける、なににだってなれるなんて嘘。でも、久々に来た駅はあんなに腰が重かったのにあっさり着いた。
無印良品で売ってるオレンジだかライムだかカモミールの炭酸水がすき。こんなに美味しいしカロリーもゼロ。二酸化炭素を染み込ませた水150円。
その後両替の為に飲み物2本買う羽目になった。さっき買わなければよかった。水は130円だった。二酸化炭素20円。
やっと分かった。わたしに必要なのは思考することでも文字を書くことでもない。祈るだけ。ひたすら祈るだけ。
わたしの苦しみが絶望なんて4文字で表せるわけがないのに、絶望という言葉で全てを済ませようとする楽観さが嫌になる。
折角海に来たのにくもりだった。こういう小さな絶望が少しずつわたしを切り付けて、忘れて、ここに傷だけが残る。

さよならだけが人生ならば
人生なんていりません

なにが言いたいかって、たまには痛い文章を書きたかったってことです。

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