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大泉のせい?否、今回は北条のせい!~『鎌倉殿の13人』義高・藤内の誅殺をめぐって

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、頼朝が御家人たちの騒動に責任がないとわかっていながら、上総介広常を誅殺する回は、上総(権)介を演じた佐藤浩市の演技のよさもあって、頼朝の残忍さが話題になった。頼朝役の個性的な役者の名をキーワードに「大泉のせい」と呟かれたことは記憶に新しいところだ。
このドラマが描くのは、独裁的な武断派の頼家が廃され、有力者13人による合議制が成立し、実朝が暗殺された後、承久の乱を経て、武家支配が確立すると、義時の息子、泰時が御成敗式目を制定して、幕府の法治体制が固まる社会の画期を描くものだと思っている。つまり、これは中世における不完全なものとはいえ、法の支配と議会制民主主義という現代社会の基本がどのように成立したかを、歴史的に学ぶ作品であると言ってもよい。
つまり、それまでの社会では法的な裏付けも薄く、権力者が自分勝手な判断で処断を行い、地方の実力者たちはさしたる教養も積まず、大した考えや志もなくして、しばしば腕っぷしに訴えて支配権や利益を争っていた無法な時代であり、貴族や寺社、果ては、天皇や院さえ、そえぞれが自分勝手に振る舞っていたということである。女性たちも例外ではなく、亀の前に対する後妻(うわなり)うちの回は、身分の高い女性が感情に任せた私刑をおこなうことも許容されていたことを示している。
頼朝も、正に、この範囲で上総介誅殺という役割を担ったことは、頭に入れておいた方がよいが。しかし、義仲の最期と、一の谷の新説を経た、2回先で起こった木曾義高の誅殺については、些か事情がちがったはずである。端的にいえば、義高の誅殺、および、首をあげた藤内光澄への仕打ちは、頼朝のせいというよりは、義時のせいであり、政子のせいだった。
今回の演出ではさらに武田信義による蠢動が脚色されており、その息子の一条忠頼の粛清も加えて、頼朝のもつ残忍さの発露として語られている。しかし、今回については、頼朝自身も決断を強いられた部分が大きく、上総介の回とは、描き方が分けられていたことに気づかれていない。この物語のなかで、演出の意図以上に、頼朝を悪役に固定したい視聴者の思惑が透けてみえるのだ。
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まず、義高の粛清は、中世の支配者としては当然、とるべき行動だったことは強調しておきたい。それは正に、『君主論』でマキャベリが主張した正しい君主の行為なのである。もっとも、正にこの書物によって、マキャベリのイメージはよくないわけだが、実際には一都市国家(コムーネ)の文官にすぎなかったマキャベリは、単に権力者に阿って、支配者が支配者としての立場を守るためのエゴイスティックな献策をしたのではなく、そのことによって、市民の被害ができるだけ小さくなるように献策をしていたという事情を見逃すべきではない。そのような目で読むと、『君主論』は実のところ、マキャベリが市民目線から、なんとか為政者をコントロールしようとした書物であることがわかってくる。その意味では、『君主論』は『マグナ・カルタ』に似た役割をもっていたはずなのである。

ただし、当時のフィレンツェの支配者は追い詰められたイギリスのジョン王とは異なり、マキャベリを無視することが可能だった。コムーネの独裁者ロレンツォ・ディ・ピエロ・デ・メディチはマキャベリの書物を一顧だにすることもなく、献策は受け容れられなかったようだ。
権力争いに敗れた相手の子孫を残しておくと、将来、その子孫の意志とは関係なく、何かの勢力に担がれる可能性があり、結果的には、騒乱の種が増えるため、市民の被害が増していく可能性のほうが高い。市民にとってはコムーネの安定は、もっとも大きな安全と利益をもたらすのだとすれば、支配者が悪名を買ったとしても、将来の禍根の種となり得るものを刈り取ってくれた方がよいのだ。頼朝の決断は、正に賢君のものであったことがわかる。
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これに感情的な反発をみせたのは、北条方である。今回の脚色では、許嫁であった大姫の意見が強調され、後半の場面で、自ら喉に刃物を突きつける姿まで見せている。そうした娘の感情を慮って政子が助命を強く主張し、弟の義時が動いていた。しかし、義高は父を裏切った形になった義時のことをこころから信用しきれずに、その庇護から逃れて逃走した挙句、頼朝が寸でのところで助命を命じたにもかかわらず、間に合わず、藤内に討たれてしまうという筋にしている。
ここでピュアな若者である義高が、頼朝だけではなく、義時もまた信用できない人間とみていたことには重みがある。これは以前に、縁戚で、ドラマでは義時の親友扱いである三浦義村が、義時が自分では気づかぬうちに、頼朝に似てきていると言っていたことと対応する場面であった。
頼朝の決断には既述のように、頼朝の優位に圧倒されつつある甲斐源氏の武田信義が、隣り合う信濃や北陸方面にまで影響力がある木曾の影響力を狙って、義仲の遺児の義高を抱き込もうとしたことが描かれており、以前から虎視眈々と狙っていた上総介の誅殺とは分けて描いているのが明らかだ。こうした頼朝のマキャベリズム的な正しい判断と比べると、北条側の動きは洗練されていない。
頼朝の古い側近で、常にイェスマンであった安達盛長が共感し、初めて頼朝に叛いて、義時らの策謀を手伝う描写(のちに安達氏が北条氏の縁戚に連なることを予言している)はあるものの、それだけで頼朝を完全な悪役に仕立てることはできないだろう。
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頼朝は以前に、この鎌倉で自分の知らないことはないと豪語していた。そのため、義高に関する策謀も、完全に頼朝の知るところで行われたと考えるほうが自然である。北条側に押しきられ、助命を約束したものの、義高が亡くなったのちに、藤内を罰し、義時に手を下させる。これは自分を裏切って行動した、義時への罰なのであろう。しかし、それは頼朝のもった強権が上総介の頃よりも、さらに凶暴になったことを示すというよりは、北条がもはや頼朝の決断に喰い込んでおり、その決断の責任は北条自身が負っていることを示しているのである。自分の居場所はここにしかないという、義時の台詞が象徴的だ。この事件の大部分は自業自得だったことを、彼は自覚した。
もちろん、頼朝が自分の助命命令がもはや間に合わないことを計算に入れて、政子の側に譲ったという可能性は指摘できるし、すべてを知った上で、次善のシナリオへと移ってみせたのだとすると、頼朝の責任は依然として大きい。今回の脚色では、富士川では頼朝を出し抜こうとするなど、以前は同格以上であった甲斐源氏に対して、頼朝の優位が決定的になる契機としても、この事件を描いている。こちらは100%。大泉のせいと言ってもよい。すべてが史実どおりというわけではないようだが、鋭いドラマの構成であるように思えた。しかし、義高、藤内の仕置きについては、北条氏の責任のほうが大きかったのである。
固定された悪役を求める気持ちは、誰にでもある。しかし、そのような見方を警戒することで、世の中の見え方は変わってくるものだ。なんでも、大泉のせいといって安心するのは、この時世に相応しくないはずである。例えば、ウクライナの戦争が必ずしもプーチンのせいだけではないことを理解することは、戦争の背景を考えるのに重要だし、その影響下で、日本が軍拡的な方向で変わっていくことへの警戒にもつながっていく。物事の本質は、偏った目には見えてこないものである。





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