組み体操の是非

 最近、組み体操の是非について、ネット上のみならず、テレビなどでもニュースの特集として取り上げられているのを見かけます。

 運動会シーズンですし、旬なテーマですので・・・

 反対派はとにかく、その危険性を指摘しています。事実、組み体操が原因とした骨折や後遺症を残すほどの重大事故が発生している事実は見過ごすわけにはいきません。つまり、組み体操に教育的意義を求めるにあたって、その危険性の方が遙かに問題であるということ。

 賛成派は、組み体操をすることで得られる感動素晴らしい。と言います。さらに言えば、みんなで一つの目的に向かって力を合わせること(一体感、協力、仲間意識とでもいいましょうか。)や達成感等、普段の生活では得られない教育的価値があると言います。(反対派は、それを、北朝鮮のマスゲームや軍国主義的な思想にまでつなげる意見もあるようですが・・・)

 さて、私としては・・・結論から言えば、私は、組み体操は賛成派です。しかし、賛成派の意見とは理由が違います。

 私は、組み体操に、派手さや難しさ、高さや大きなといった見た目の完成度を求めません。つまり、観客に見せるための組み体操をしないと言うことです。

 いわずもがな、組み体操をすると言うことは、学校の教育課程の中で、つまり学校の時間を使って行うわけです。そうなると、教育的な意義を明確にしなければいけません。教育的な目的を持って取り組む必要があります。

 そう考えたとき、「結果よりも経過」に視点が移るのはごく自然なことだと思っています。

 つまり、技の見た目や、難易度の高い(つまり往々にして見た目が派手になると言うことです。)技を求めたりするのではなくて、そこへ至るプロセスにこそ、教育的意義を求めたいと思うし、本来そうあるべきだと思っています。

 だって、運動が得意な子もいれば苦手な子もいる、いろんな子がいる中で、何を求めていくのか?一体感や仲間意識、達成感、感動などを味わわせたいという気持ちは私も同じ。でも、それは、本番へ至るまでのプロセスにこそ、その本質が宿るものだと思っています。

 だから、目の前の子どもの現状を見て、危険な技をする必要なんてない、必要以上に無理難題を押しつける必要なんてない。てか、そんなことをしなくても、さっきいったような教育的意義は練習にやり方次第、つまり、「いかに子ども達をその気にさせるか、いかに子ども達の心に火をつけるか」が全て。結果なんてどうでも良い。観客を意識するからおかしな事になる。それは厳しい言い方だが、指導者の独善。自分がいい顔したいだけ。見た目を、観客をほんの少しでも意識した時点で、組み体操はやめた方が良い。

 (確か大阪で、教員の負担軽減を目的として(あまりにもサービス残業が多いからということです。)部活動の指導を民間委託使用という動きがあるようですが、まさしく、今回の話が当てはまりそうです。また改めて書き綴ってみたいと思います。)

 多分、この先、組み体操はおろか、騎馬戦なども縮小傾向は間違いないと思います。それは、結局現場の教師達の教育的信念が弱いということが大きな原因であると私は思っています。だからといって、怪我は仕方ないとは全く思わない。どんなことがあっても重大事故は避けなければいけない。だからこそ、私たちは目の前の子どもを見て、その子達の「成長」を求め、それをサポートできるような組み体操を考えていかなければいけない。見た目や観客は抜きにして。

 それはとっても時間と労力がかかること。でもお金もらって「プロ」を名乗っている以上、それは言ったらお終い・・・

 ちなみに、私は、運動会を通じて、子どもに泣かされたことがたくさんあります。子どもを泣かしたこともあります。行事を通して、普段の生活では得られない特別な成長があるのは事実です。リクエストがあればそういったエピソードもアップしたいなと思います。

 本日はここまで。

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