ALFA+アルファ #1

~はみ出した歌唄い ①笠井紀美子~

Text:金澤寿和

 60年代というのは、本格的ジャズ・シンガーはジャズ・クラブで歌ってナンボ、という時代だったのだろう。いわゆるレコード会社専属のジャズ歌手という人はほぼ不在で、その筋の草分け的存在であるマーサ三宅でさえ、キング、コロムビア、東芝EMI、ポリドールなどを転々としながらレコードを出していたらしい。

 ここに紹介する笠井紀美子も、例外ではなかった。1960年代半ばに京都から上京し、1967年、世良譲トリオに客演して吹き込んだボッサ系ラウンジ・ジャズ作『The Modern Playing Mate』が初録音。でも公式デビュー盤とされるのは、大野雄二トリオをバックに従えた1970年のライヴ盤『JUST FRIENDS~笠井紀美子コンサート』である。その後も峰厚介四重奏団、マル・ウォルドロンと共演相手を変えて作品を続けたが、そのすべてがワン・ショット契約だったようだ。他にも横内章次クインテット、日野皓正クインテット、ジョージ大塚トリオ、原信夫とシャープス&フラッツといった人気バンドと共演。71年度スイングジャーナル誌の人気投票では首位を獲得した。

 そんな笠井にひとつの転機が訪れる。ひとつは、世界初のカップ麺、日清カップヌードルのCMソング「ハッピーじゃないか」(作曲: 小林亜星)を歌ったこと。そしてもうひとつは、このCMに先駆けて、かまやつひろしのソロ・アルバム『どうにかなるさ アルバムNo.2』にゲスト参加したことである。

 特にこのかまやつのアルバムでは、彼のスパイダーズ時代のメンバーやデビュー前のガロ、フライド・エッグの成毛滋や角田ヒロ(現・つのだ☆ひろ)といったロック系ミュージシャンと交流することになったから、ジャズ畑にいた彼女には一種のカルチャー・ショックだったかもしれない。一方のかまやつも、この半年後、矢継ぎ早にジャズ・シンガーの父:ティーヴ釜萢との親子共演盤『ファーザー&マッド・サン』を制作。ティーヴが英国の人気ロック・バンド:フリーの曲を歌ったり、息子ムッシュがジャズ・スタンダード曲にハーモニーをつけるなど、遊び心溢れる一枚となった。きっとこの2枚のアルバムの制作を通じて、ムッシュの脳裏には、「ケメ子(笠井のニックネーム)にロックを歌わせたら面白いんじゃないか?」とアイディアが浮かび、「じゃあどう歌わせる?」「メンバーはどうする?」などと、次々と構想が積み上げられていったに違いない。

 冒頭に書いたように、そもそも昭和時代のジャズ・ヴォーカルの世界には、スタンダード至上主義がはびこっていた。でもムッシュは、彼女の実力はジャズに止まらないと直感していたのだろう。父ティーヴという免罪符もあった。果たしてCM企画とどちらの発想が先だったかは知る由もないが、笠井自身もムッシュの提案に乗り気で、積極的にジャズのフィールドから踏み出していったと思われる。近年はシティ・ポップ名盤としても評価される77年作『TOKYO SPECIAL』(安井かずみが全曲の日本語詞を書いたジャジーなポップ・アルバム/山下達郎や矢野顕子、横倉裕、鈴木勲らの楽曲を収録)も、この時のトライアルがベースにあってこそ。このアルバムはムッシュ自身のプロデュースで、『アンブレラ』と名づけられた。タイトルの由来は不明ながら、ムッシュのことだから、 “笠井〜かさ〜傘”なんて軽〜い連想ゲームだったのでは?、なんて推察している。

笠井紀美子「アンブレラ」+

笠井紀美子『アンブレラ』(1972年)

 リリースは1972年3月。タイトルはおふざけでも中身は至って本気で、収録された全10曲中4曲をムッシュの書き下ろしが占めている。しかもアタマ4曲が、がっつりムッシュ楽曲。更にアナログA面の最後「エンド・オブ・ライブ」は、彼がスパイダーズに書いた曲のカヴァーであった。

 ほか4曲は、スパイダーズ出身で当時PYGで活動していた大野克夫、アルファ創設者の村井邦彦、村井の先輩で笠井とも旧知の間柄である大野雄二のペン。カヴァーがもう1曲あって、ミッキー・カーチスのプロデュースでマッシュルーム・レーベルからソロ・デビューしたばかりの成田賢(元ビーバーズ)のアルバム『眠りからさめて』から「すべては一部のすべて」を取り上げている。作詞は山上路夫、大橋一枝、安井かずみなど、いずれも村井〜アルファ人脈から。

 そしてアルバムのエピローグが、ムッシュと笠井共作による10分近いブルース・チューン「ユー・トーク・トゥ・マッチ」。そのうえこの曲のイントロにはムッシュのトーク・バックが残され、ギターのフレーズに絡むように「気持ちよく演ろう〜♩」「さぁ、ここから本番〜♩」なんて口遊んで雰囲気を盛り上げているのだ。

 バック・ミュージシャンも、楽曲提供した大野や村井に加え、角田ヒロ、原田裕臣(ミッキー・カーチス&サムライ)、そしてはっぴいえんどから細野晴臣が宇野主水、鈴木茂がほしいも小僧という偽名で参加した。でもこの2人の存在が実はかなり重要と思われ…。それまで岡林信康や遠藤賢司、小坂忠などフォークやロック系セッションばかりに参加していた2人が、既成の音楽ジャンルの壁を突き抜けた自由度の高い笠井セッションに参加したのだ。『日本ジャズ界のトップ・レディー、ロックに挑戦!』という帯キャッチの通り、ブルージーなロックやプロコル・ハルムを髣髴させるアート・ロック風楽曲に加え、ビル・ウィザースみたいなフォーキー・ソウル、ジャニス・ジョプリン風の展開もある。大野雄二の作「窓をよこぎる雲」では、ソウル・ジャズ的なシンコペイト・リフレインに笠井のスキャットが交わり、初期名演とされる鈴木茂のギター・ソロが鮮烈に。この時期で言えば、吉田美奈子『扉の冬』や金延幸子『み空』にも通じるテイストがあるものの、笠井の資質もあってか、やはりリアルなハイブリット感が強く、シティ・ポップ前哨戦風の質感が漂う。彼女の後を追うように続々と女性ジャズ・シンガーが登場したが、名を為すものは、ほとんどがポップスやフュージョンにアプローチをする。その先駆けが笠井紀美子だった。

 ビリー・ホリデイやニーナ・シモン、エラ・フィッツジェラルドにサラ・ヴォーン…。アフリカン・アメリカンなジャズ・シンガーは、ほぼ同時に優れたブルース・シンガーでもある。ラストの「ユー・トーク・トゥ・マッチ」を聴いていると、ムッシュのそもそものヒラメキは、彼女にこんな、ど・ブルースを歌わせることにあったのでは?なんて思えてくる。

 でもそれだけの可能性を秘めた知られざる名盤を、今も知る人ぞ知る存在に留めてしまっているのは大きな損失。秘宝というのは、広く存在が知られたモノを大切にしまっておくから“秘宝”なのだ。価値あるものを誰も知らないままに半ば寝かせておくのは、ただの“宝の持ち腐れ”という