ALFA RIGHT NOW 〜ジャパニーズ・シティ・ポップの世界的評価におけるALFAという場所

第二回
「アンディ・ケイビック(Vetiver)に聞くシティ・ポップとALFA」

Text:松永良平

この連載を引き受けた4月は、まさに新型コロナウィルス流行を受けての緊急事態宣言が日本全国で発令された渦中だった。ジャパニーズ・シティ・ポップを世界に向けて発信する重要拠点となっていたレーベル〈ライト・イン・ジ・アティック〉を振り出しに始めてみようと思い立ち、同社でのリイシュー・プロジェクトに尽力しているロサンゼルス在住の日本人プロデューサー、北沢洋祐に打診をし、いろいろと話を聞いた。第一回では、そのさわりの部分をイントロダクションとして書いている。

その最初の取材の時点でも全米各州も非常に厳しいロックダウン中だったが、まだお互いにコロナウィルスだけに集中して備えていればなんとかなるのではないかという意識だったと思う。

それからわずかな間で状況はかなり変わった。5月26日にミネソタ州ミネアポリスで起きたジョージ・フロイドさんの痛ましい事件を起点とした全米規模の抗議行動と、それに対する警察や政府の理不尽な対応には、日本でニュースを見ているだけでも気持ちが混乱した。さらには、経済活動の優先を謳った自粛解除の動きによって再びウィルス感染の規模も拡大している。

アメリカに明るいニュースがないことを彼は嘆いていた。

そんななか、メールのやりとりをしていたら、こんなことが書いてあった。

「村井さんに初めて会ったあの日からすでに4年経ちましたが、こう振り返って見るとその期間で想像してたより大きな影響のあることを達成できたなと思ってます。よく覚えてるのは村井さんと会った日はトランプが当選された翌日だったこと。村井宅へ向かってる車の中でみんなでこの世はどうなってしまうのか?と話してたことを覚えてます。それから4年後、いまはこんな状況ですからね」

そうか。第一回で、村井邦彦の著書『村井邦彦のLA日記』で北沢さんたちが2016年に村井邸を訪ねる一文をとりあげたが、その日がドナルド・トランプが大統領になった(なってしまった)翌日だったことは意識せずにいた。

単なる日付の巡り合わせにすぎない出来事なのだろうが、ぐうぜんとは不思議なものだなと思う。だってそうだろう。北沢たちが村井を訪ねたその日があったおかげで、2017年にリリースされた『Even a Tree Can Shed Tears : Japanese Folk & Rock 1969-1973』をはじめとしたコンピレーションが大きく動き出した(アルファ関連のライセンスについて、村井の尽力が必要だったことは明言されている)。

そして、アルファレコードの全貌をとらえなおすこのプロジェクトがスタートしたこの2020年、世界はこれ以上ないほどに揺れている。

もっとさかのぼって考えれば、1969年というアルファレコード創設の時代も、社会は激動していた。村井がいつか未来に実を結ぶ種を植え、育てるための場を作ろうとしたのは、そんな時代だったということは意識しておいたほうがいい。

平和な時代でなければ音楽は聴けない、という人がいる。はたして本当にそうだろうか。もちろん争いごとや社会の矛盾はなくなるに越したことはない。だが、美しいものを求める創作、作り出そうと挑み続けた記録が、ある種の祈りのように時代を超えて通じるのだとしたら、厳しい時代だからこそ音楽は必要だと思う。

そして、そのために音楽は、時代の変化に対して揺るがない、芯の強いものでなくてはならない。

前置きが長くなってしまった。連載第二回となる今回は、ジャパニーズ・ポップのアメリカでの受容を表面化させ、促進した〈ライト・イン・ジ・アティック〉のコンピレーションで重要な役割を担った人物のひとり、アンディ・ケイビックに行ったインタビューを掲載する。

サンフランシスコでヴェティヴァーというバンドを率いるアンディは、ぼくの知る限りでは、かつてあった日本の音楽への興味(グループサウンズやハードロック、パンクなどへの)とは違った新しい感覚でジャパニーズ・ポップを掘り始めた最初の世代の代表的な人物。おなじくジャパニーズ・ポップに傾倒しているデヴェンドラ・バーンハートのコラボレーターでもあった。もともと自身も70年代の英米のシンガー・ソングライターやポップ・ミュージックに影響を強く受けた彼は、ヴェティヴァーで『Songs from the Past』(2008年)という、日本のマニアも驚くほどディープな英米の名曲をカヴァーしたアルバムをリリースしている。また、翌年にリリースされたアルバム『Everyday』(2009年)は、一転して、メロウなシティ・ポップ感覚にあふれたオリジナル曲で占められ、このアルバムを、いわゆる“ヨット・ロック”の代表にあげる声も多い。

アンディがジャパニーズ・ポップを探していると友人づてに聞いたのは数年前のこと。そのときは直接のアクセスをする機会はなかったが、『Pacific Breeze』リリース時にスタッフとして彼の名前があるのを発見したときは信頼できる証のように受け止めた。

〈ライト・イン・ジ・アティック〉のプロジェクトに関わった面々は、それぞれに自分なりの視点をもって選曲や構成にあたっているが、プロフェッショナルなミュージシャンでもあるアンディがジャパニーズ・ポップに抱いた関心についても知りたいと思った。そしてもちろん、英語で得られる情報が少ないなかで、彼がアルファレコードについて得ていった知見についても。

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『Pacific Breeze』

──最初に好きになった日本の曲は? そして最初のフェイヴァリット・アーティストは?

「たぶん、最初はピチカート・ファイヴだね。〈Baby Love Child〉が入ったアメリカ向けのコンピレーション盤『Made In USA』(1994年)だ。プリンス・ポールがソウルⅡソウルとドリーム・アカデミーをカットアップして編集したみたいなすごい曲だと思った。

初めて日本に行ったのは2003年のこと。タッスルというバンドでベースを弾いて、東京の近郊とか、ライヴであちこちを回った。そのとき、ヴィレッジ・ヴァンガードで『琉球レアグルーヴ ~Shimauta Pops in 60's -70's』(2003年)というCDを買った。そのCDに何が入っているのかまったくわかってなかったけど、他にはないおもしろさがあるように見えたんだ。実際、あれは(沖縄の)島唄ポップ・ミュージックのすごいコンピレーションだった。シャッグスを思い出すような瞬間が何度もあったくらいね。

でも、あのCDのブックレットにはあんまりインフォメーションがなくて、他にはどういうアーティストが日本にいるのかわからなくてね。それからというもの、アメリカにいるときでも日本のアルバムを見つけたらどんなものでも手に取った。ぼくは70年代(アメリカ)のポップ・ミュージックやシンガー・ソングライターがもともと大好きで、日本の音楽のクオリティの高さがそれに匹敵するものだったという発見も、探し続ける大きな動機になった。

そして、二度目に日本に行ったときにはタワーレコードでたくさんCDを買ったんだ……、はっぴいえんど、シュガー・ベイブ、細野の初期のソロ・アルバムとかをね」

──日本の音楽を知っていくにつれ、見えてきた重要なバンドやアーティストがいたと思うのですが。

「当時の日本で誰が重要な役割を担っていたのかを見分けるのは簡単じゃなかった。だけど、個人的にははっぴいえんどとシュガー・ベイブの存在が次に手に入れるべきレコードの指針になった。メンバーのソロ・ワーク、プロデュース作品、サイドマンとして参加した作品とかね。サディスティックミカバンドとYMOも同じように刺激的な存在だった。

ぼくは、そうやって見つけた音楽を友達とシェアしあって徐々にその輪を広げていっただけだよ。日本で知り合ったみんなもぼくにもいろんなアーティストや作品を教えてくれたしね。何年もかけて知識を増やしていったんだ」

──ALFA MUSICについては、どういう印象を持っていますか? 細野晴臣、小坂忠、ブレッド&バター、荒井由実、佐藤博、吉田美奈子、YMOといったアーティストたちについての個別の印象でも構いません。

「ALFAというレーベルについては、そんなに詳しくは知らないんだ。ただ、ぼくの好きなアルバムやシングルはALFAからたくさんリリースされている。いま名前があがったアーティストは、みな長いキャリアと自分の強固なヴィジョンを持っているよね。自分自身をたびたび更新し、新たなスタイルで多くのアルバムを出し続けている。その事実がとても刺激的だ。

非常に高いミュージシャンシップとクリエイティヴな探求がこうした人々の間で行われていた。そのことを彼らの作品を通じてぼくは知っている。しかし、ぼくにわかっているのはまだほんの表面に過ぎない。言葉の問題もあるし、彼らの交友が当時どのように行われていたのかをはっきり把握しているわけじゃない。まだまだ学ぶべきことがたくさんだ。

赤い鳥についてはそんなに詳しくない。だけど、赤い鳥が(東芝の)リバティ・レーベルで出していたレコードはとてもよさそうだよね。マッシュルーム・レーベルにも聴いてみたいリリースがいくつかある。カントリー・パンプキンとか。彼らは何者? 『ほうろう』(1975年)も配信されたのなら聴かなくちゃ。あれは名作だよ!

(ALFAで特に好きな曲は)佐藤博の〈Say Goodbye〉(『Awakening』収録/1982年)だな。聴くたびにいつも強く心を揺さぶられる。当時の感覚が濃厚に出たアレンジだけど、いまでも新鮮に響くし、メロディもすばらしい。細野さんの『はらいそ』(1978年)もぼくにはとても特別なアルバムだ」

はらいそ_初回盤

細野晴臣『はらいそ』

──去年の6月にLAのマヤン・シアターで行われた細野晴臣のショーは見ました?

「もちろん。サンフランシスコからLAまで駆けつけたよ。素晴らしかった。彼のバンドは達者だったし、昔の曲の新アレンジもうまくはまってた。スタンダードやブギウギのカヴァーも良かったな。細野は自分のスタイルをはっきり持っているし、バンドの音もあのホールに合っていた」

──〈ライト・イン・ジ・アティック〉のコンピレーション選曲で、日本以外の地域に住む人たちにジャパニーズ・ポップを伝える上でどういうことを意識しました?

「一連のコンピレーションはみんなの協力でできたもの。ぼくの役割は、まず耳なじみがよくて、心を動かし、プロジェクトの主眼に沿った曲をプレゼンすることだった。それぞれの意見が取り入れられているからこそ、このプロジェクトをみんなが楽しめているんだと思う」

──村井邦彦さんはいまLA在住です。村井さんの助力もあって、権利の取得がうまくいったという局面もあったと聞いてます。

「ぼくは村井さんにはまだ会ったことはない。だけど、ぼくらのコンピレーションに対して村井さんがしてくれた助力には感謝している。彼の音楽的なテイストの良さとこの世界に送り出したすばらしい楽曲群に対して、コンピレーションのクオリティで応えないといけないよね」

インタビューの最後の質問で、2000年代には友達と密かにシェアしていたジャパニーズ・ポップが、いまではアメリカでも広く受け入れられている流れをどう見ているかを聞いた。

「YouTubeやmp3でのシェアが、みんなにジャパニーズ・ミュージックを見つけさせたと思う。同じような時代(1970年代や80年代)にアメリカでヒットしていたポップやR&Bの曲と似たプロダクションやアレンジが施されていたから、親しみを持ちやすかったんだろう。だけど、似てるだけじゃなく、そこには驚きと癒しの両方をもたらす違いもあるんだよ」

驚きと癒しの両方をもたらす違い。

そう言われると確かにそうなのかもしれない。単に英米のポップスのコピーというのとは違うジャパニーズ・ポップについての解釈を、端的に表す言葉だと思った。いま起きている現象(海外でジャパニーズ・ポップが受容されていること)が、この困難な時代を越えて単なる流行に終わらないものになるとしたら、その答えのひとつがそこにある。

次回は、〈ライト・イン・ジ・アティック〉のジャパニーズ・プロジェクトの重要なスタッフであり、2016年に村井邸を訪ねた3人のうちのひとり、インターネット・ラジオ〈dublab〉のマーク・“フロスティ”・マクニールを交えて、さらに現在のアメリカとアルファが交わる話を聞き進めたい。