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第六回「滝沢洋一を探して②」

滝沢洋一とは何者なのか

Text:松永良平

 その旅は、2021年4月20日に突如ネット公開された一本の検証記事から始まった。
〈シティ・ポップの空を翔ける“一羽の鳥” ~作曲家・滝沢洋一が北野武らに遺した名曲と音楽活動の全貌を家族やミュージシャン仲間たちが証言。その知られざる生い立ちと偉大な功績の数々〉

 その記事を執筆した都鳥流星氏に直接対面して、滝沢洋一への愛と細い手がかりをたどって都鳥氏がたどり着いた奇跡的な邂逅への道筋を聞いたのが第一回だった。
 幻のシティ・ポップ・シンガーであり、ある時期のアルファミュージックの主力ライターであった滝沢洋一。都鳥氏の精力的なリサーチはその後もご遺族の協力を仰ぎながら続いていると前回の最後に発言を記した。当連載もその一助となるべく、都鳥氏をパートナーとしてしばし滝沢さんがアルファにとってどんな存在であったのかを当時の重要な関係者を招いて話を聞いていくことにする。

 最初に聞くべきは、当時アルファに滝沢洋一を招き入れた責任者でもあった音楽ディレクター、有賀恒夫だ。ハイ・ファイ・セットが1977年7月5日に8枚目のシングルとしてリリースした〈メモランダム〉が、滝沢さんにとってアルファで初めて公式にリリースされた曲だ(都鳥にとって運命的な出会いとなった一曲でもある。前回参照)。その曲の担当ディレクターが有賀さんだった。話の皮切りも、やはり〈メモランダム〉からになった(聞き手は松永良平と都鳥流星)。

ハイファイセット「メモランダム」縮小

ハイ・ファイ・セット『メモランダム』(1977年発表)

ーーーーー滝沢洋一さんとの出会いは覚えていらっしゃいますか?

 「後輩に後藤順一という男がいて、彼が滝沢くんをアルファミュージックに連れてきたんです。その前に〈メモランダム〉のデモテープをもらったのが最初だったかな。それをすごく気に入って、(滝沢に)会いたいって僕が言ったんだと思うんです。小柄で気さくな人だったな」


ーーーーー滝沢さんのデモテープを聴かれた印象は?

 「デモテープの完成度は大したことなかったですね。だけど、フィールとかビート感とか彼が音楽で言いたいことは全部入ってる感じがしました。彼が以前に伊藤(広規)くんたちとやっていたバンド活動の経緯も(都鳥の)記事で読みましたが、僕はそのことはあんまりよく知らないんです。ただ、滝沢くんに関しては作曲がとっても優れていた。コードの使い方やメロディの歌い方がすごく好きだったので、お願いするようになりました」


ーーーーー〈メモランダム〉は発表されたシングルではなかにし礼さんの作詞でしたが、もともとのデモでは後に作詞家として活動される小林和子さん(『レオニズの彼方に』で「優しい朝のために」「マリーナ・ハイウェイ」の詞を提供)が作詞されていたんですよね。なかにしさんに変更されたのはどういう経緯だったんですか?

 「確かに、最初は(小林による)別の歌詞がついていました。彼女の歌詞もよかったんですけど、スタッフみんなで話して今回はなかにし礼さんにお願いしようという話になり、それをハイ・ファイ・セットが歌ったんです」

ーーーーー歌詞が変わったとはいえ、いきなりシングルのA面起用ですもんね。大抜擢の部類ではないでしょうか?

 「滝沢くんの曲はシングルになったのが多いんじゃないかな。シングルになっていなくても、アルバムの中で光る曲が多かった印象です。当時僕がディレクターとしてよく発注していた作家は3、4人いたんですけど、(滝沢には)必ずメインの感じでオファーしてたと思います。彼はとにかく“こういうのがほしい”ってオファーすると、それを100%か120%くらい理解して作ってきてくれたから。サーカスでの依頼が多かった印象ですね」

ーーーーーサーカスでは、アルバム『ニューホライズン』(1979年)で3曲、『WONDERFUL MUSIC』(1980年)で4曲、その前にもシングル「アムール」、カップリングの「愛はイエスタデイ」(1978年11月)など、アルファ時代だけでかなり滝沢さんに発注がされています。やはり、滝沢さんならいい曲が上がってくるという信頼があったから?

 「そうですね。曲数にこだわってたわけじゃないし、彼だから採用したとかじゃない。出てくる作品がとにかくすごくよかったからですよ。なかでも〈六月の花嫁〉(作詞:山川啓介)は素晴らしかったですね」

ーーーーーアルファ時代は、作詞家では山川啓介さん、竜真知子さんとのコンビが多かったですね。

 「竜真知子さんとも相性が合うというか、彼女も滝沢くんのメロディやコードの使い回しは好きだったみたいです。いつも“いい曲だ、いい曲だ”って言ってたから。彼はほぼ曲先なんですよ。滝沢くんみたいに洋楽育ちの人には詞先は向かない。歌詞が先にあると曲が束縛されるから。彼の曲が、作詞家にああいう歌詞を書かせていたという部分はあると思いますね」

ーーーーーハイセンスな言葉を引き出しやすいメロディかもしれませんね。

 「曲がよければ、いい詞になりますよ。最近の曲はいいメロディがないですよね。コード・プログレッションを理解してる人が作ってない。もうちょっと勉強しろって思うけど、しょうがないね(笑)。
 僕は、レコーディングの度に滝沢くんをスタジオに呼んでました。自分の曲がリズム録りから、ストリングスとか管楽器をオーバーダブされて、オケが完成されて行くのを間近に見て、とても喜んでいました。当時はアナログ時代ですから、分厚い2インチのテープが回って、そこに録音するのですから、今のコンピューター録音より実感がありましたね。“作曲家冥利に尽きる”と彼が言ってたことをいまでも覚えています。」

ーーーーーソロ・アルバム『レオニズの彼方に』(1978年)については、どういうふうに関わられたんですか?

 「じつは僕は何にも知らないんです。どうして東芝から出たのかも知らない。出来上がったアルバムは聴かせてもらいましたけど。〈メモランダム〉と〈ラスト・ストーリー〉という曲以外は全部(アルバムのための)オリジナルでしたよね。直接担当していたのは粟野敏和という後輩ディレクター。彼に話を聞くべきと思いますね」

ーーーーー粟野さんはクレスト・フォー・シンガーズも担当されていた方ですよね。ぜひお話を伺いたいです。

 「僕は(滝沢とは)ソロアーティストとして仕事をした経験がないんです。あくまで作曲家としての依頼だったと思います。仕事以外で話をした記憶もあんまりない。いつも“今度サーカスの曲でこういう感じのがほしいから書いてね”みたいな感じで、新曲を発注するという目的があって会っていたから。
 ただ、彼が出してきた曲に対して、ダメ出ししたり、こっちで直した記憶はないです。最初から完成度が高いんですよ。普通、サビはいいんだけどそこまでのAメロが面白くないし、サビまで持たない曲が多いんですよ。だけど、彼は本当に持ってくる作品がよかった。駄曲がないんです。まあ、変な曲を僕に持ってきたら怒られるからかもしれないけど(笑)」

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 音楽ディレクターとして楽曲のコンディション管理に厳しくあたっていた当時の有賀さんの顔が垣間見える言葉で、インタビューは結ばれた。

 有賀さんが滝沢洋一を作曲家としてアルファに迎え入れ、その才能を最大限に認めた人物であることに変わりはない。アルファ時代はよく食事をともにしていたそうだし、作家としての滝沢さんの背中を未来へと押していた功績は大きい。

 だが、結果的に唯一のソロ・アルバムとなった『レオニズの彼方に』制作エピソードについては、詳細はわからずじまい。当時のディレクターである粟野敏和氏に話を聞く必要が出てきた。粟野さんはアルファ以降にゲーム会社KOEIに転籍し、滝沢さんにゲーム音楽制作の依頼をした人物でもあった。なので、この話はさらに続く。

 取材のなかで、都鳥氏が滝沢さんの奥様から聞いた微笑ましいエピソードを語るワンシーンがあった。当時、有賀さんがスタッフやミュージシャンを呼んで主催していたカレーパーティーで、カレーと一緒に供されたインゲン豆と黄桃のサラダがとても美味しく、滝沢家でもミュージシャンが集まる日などに思い出して作っていたのだという。

 「いまもみんなそのサラダのことを覚えてるんですと関係者の方もおっしゃってました」と都鳥氏が告げたとき、有賀さんの表情が涙ぐんだように見えた。その一瞬に、音楽家として逸材であり、愛すべき人柄であった滝沢洋一の幻が、滝沢さんを知らない僕らの前にもポッと浮かび上がったように思えた。