浅草公会堂 『第二回 神谷町小歌舞伎』

『双蝶々曲輪日記』の角力場の冒頭、角力小屋へ木戸銭を払った人たちが、どんどん入っていくのが面白い。ほとんどシュール。あの小さい小屋へあんなに人が入る。板付きの人々もなんかスピーディだし、そして、なんといっても、相撲を取るところを、ちっとも見せないのがかっこいい。
 最初の「ごあいさつ」をきりりと福之助がやり、突然マイクを持ち出してのあらすじの説明はつかえもせず流暢なのだが、ここで福之助の「現在地」がぽろっとこぼれる。ぜんぜんまちがえないし、台詞もちゃんとおなかに落ちているが、与五郎(中村歌之助)を後押ししている濡髪長五郎(中村橋之助)と、札差の侍に召し抱えられた放駒長吉(歌之助二役)のことを、ゆっくり落ち着いて客の心に貼り付けられない。自分にわかっていることを、噛んで含めるように客へ手渡さないと。
 歌之助は、放駒長吉で頑張っているが、あの与五郎の恋敵平岡郷左衛門(中村橋吾)と、三原有右衛門(中村橋三郎、声よく出てる)の肩を持つのに、目をつぶってから、(よし)と引き受けるまでが、肚落ちしてない。ながれてる。去年より全然落ち着いていて、重心も下がっているが、「米屋のバイトの兄ちゃん長吉」(解説より)よりも、柔らかものの着物みたいな若旦那与五郎の時の方が、周りがよく見えているようだ。橋之助は立派な濡髪だけど、分厚い父性が不足だ。たとえて言うと、タイムスリップしてきた坂本龍馬がこちらを見ないで「年はいくつか」と子供に対等に聞く感じ。笑いもしないんだけどやさしい、っていうか。
 与五郎が紙入れ煙草入れ羽織を気前よくくれてやるところ、テンポよくきびきびやらないと笑えない。芝居のヤマは場所着では?
 二人ともきちんと集中して、後半の達引き(たてひき)のところ(茶碗を壊しあうまでエスカレートするのだ!)をしおおせるが、ずっと均等に集中している。ここは、呼吸を合わせて、集中と緊張をコントロールしたほうがいい。高めたり緩めたりしないと、集中につかれて全体が下がらないかなあ。
 おすもうさんて、かっこいいんだ!とこの一幕を観ておもった。座っている濡髪、輝いていた。
『一本刀土俵入』
 長谷川伸の戯曲だということは、近代劇。「書きもの」と福之助が言うように、演出が必要なのではないだろうか。まず幕開き、花道の先に見えているもの(喧嘩だ)に向かって(皆何を見ているかきちんと決めて、)息を殺し目を凝らす。ここちゃんとやらないと、三味線や義太夫が、最初の音を外したくらい残念になる。
 この芝居の福之助は、最初の役作りに疑問。取手の宿場町はずれを通りかかった、相撲部屋をお払い箱になった少年茂兵衛、これは少しゆっくりした少年なのか。ほんとはたよりない少年、あまり年端も行かないんじゃないか?なによりも、茂兵衛は飢えている。おなかがすいたら立てないよ。福之助の肩が張って、足元がひょろっとおぼつかない恰好は、たぶん勘九郎を写した立ち姿なのだろうと思うのだが、まだ自分のものになっていない。気を付けないと二幕できりっとするのがそぐわなくなる。福之助、「書きもの」読んでいるだろうか。遠慮がとれただけじゃダメ、まだ先は長いよ。
中村鶴松のお蔦、もうちょっと福之助に台詞こぼしてほしい。「絶望している女」「酔っ払い」「自分の世界」に入っていて、成立しているけれど、ちょっと寂しい。
 今年の「神谷町小歌舞伎」面白かったけれど、集中に問題がある。緩急つけないと、俳優も、観客も、疲れて息ができなくなると思う。

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