出光美術館 『物、ものを呼ぶ ~伴大納言絵巻から若冲へ~』

入り口を入って左手を何気なく見ると、そこには青い地から飛び出さんばかりの勢いで動物たちが描かれている。『鳥獣花木図屏風』、伊藤若冲。一辺が一センチほどの小さな升目に分かたれた画面は、ひと升ひと升細かく塗られている。升目は全部が均等で、等量だ。そして「分けられている」というそのこと自体でつながっている。分ける=全体という、とても織物などから発想したとは思えない、若冲の曼陀羅のような絵であると感じた。と同時に、小さく分けられたヒトマスに、世の中の格子に押し込められた若冲の魂と人生があると思う。そのヒトマスをひとつ、ひとつつなげていくこと(升目の中にもう一つ小さな光る升目、もっと小さな点も見える)、拡張することによって、若冲は飛躍する。宇宙の法則(小さなヒトマス=全体)という規矩、世界から抑制を受ける自己という縛りを乗り越えて、絵の喜び、生きることへの肯定が噴き出す。この絵は、まるで、風をはらんだ帆みたいなのだ。
(――頭の中は自由だ――)若冲はそう言っている。江戸時代は、いろいろ、窮屈な時代であった。若冲は窮屈でない未来、頭の中のような未来を思い描いていたのだろう。千載具眼の徒にはわかるっていっていたらしいが、それって自由な時代の未来の人のことじゃないだろうか。もうこの絵を見ただけでおなかいっぱい、ほかの物など目に入らない重量感だった。かろうじて、隣の酒井抱一の屏風を見るが、これがまたすごい。十二カ月花鳥図貼付屏風。右の絵から五番目の、カキツバタのしゅっとした葉に畏(おそ)れをいだいた。いかにも優しく楚々とした風情だが、どの葉も一発必中(?)で形がとれており、しかも何気ない風に描かれる。さらさらしているがまよいがない。若冲もそうだが抱一のこの屏風の中の鳥たちは皆どことなくかわいく、品がある。抱一は寛政の改革などくぐって大変だったと思うが、彼もまた、(絵の中では自由だよ)とささやくのである。
 三宅島に流された英一蝶は、机を江戸の方角に向けて、ひたすら絵をかいていた。江戸の日待の風物を、火山と、ちょっとの平地のある海に囲まれた島で描く。絵の中の江戸の人々は踊り、酒を飲み、そのすがたは、障子にうつる影まで楽しそうだ。頭の中は自由だから、英一蝶はそのとき江戸にいた。そこにはなんだか凄みがある。
 画家の頭の中の自由、絵の上での自由が、観る者の心を解放してくれる。出光美術館建て替えのため2024年いっぱいでしばらくクローズする。もっと行っとけばよかった。喫茶の場所、いまと同じにできるといいけど。

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