世田谷パブリックシアター 『What If If Only もしも もしせめて』『A Number 数』

「とりかえしがつく」「とりかえしがつかない」。
 どれだけ可能性があったとしても、起きたことは一つだけ、そして一回だけだ。『What If If Only』の某氏(大東駿介)は、大事な愛する人を亡くした。「とりかえしがつかない」。彼は喪った人を嘆き、悲しみのあまり、虚空に向かって話しかける。そこへ突然、「未来」(浅野和之)があらわれる。未来は無数の可変の可能性となって某氏を責め立て、次には現在(浅野和之二役)が「起きたこと」となって現れる。このさ、未来のほうの衣装が素晴らしい。着こなしている浅野。(「未来」、起きるかもしれないことは女の姿をしている。喪った人は女の人だったのかもしれず、女の上に起きたたいていのことは、起きなかったことに組み入れられ、「起きたこと」はおとこのもの――歴史history――なのだ。)
 某氏は散らかった部屋の中で朽ちてゆくように見える。次に現れた未来は子供(ポピエルマレック健太朗)の姿だ。この未来のこどもが、次の話に効いてくる。
 『A Number』は「未来はとりかえしがつく」というSFだ。ソルター(堤真一)は息子バーナード(瀬戸康史)がオリジナルの息子のクローンだということを黙っていた。ショックを受けるバーナード。ソルターはもう一人の、父を恨むクローン(瀬戸康史)と対面し、さらに数学教師として平穏に暮らすクローン(瀬戸康史)と話をする。
 この二本の芝居を一緒にやろうと思ったプロデューサーと演出家はすごい。けど、芝居(『A Number』ね)はすごくないなー。『What If If Only』の大東駿介が瞠目の、深い、しっとりした芝居である。心の奥底に沈んでゆく悲しみ、また噴きあがる悲しみ、慟哭がはっきり見て取れ、声は暗く優しい。(「未来」におそわれるとこきっちりやって。)ところが、『A Number』の二人は、稽古場での丹念な理解が芝居に出ていない。特に瀬戸!クローンにタッチをつける前にやることがあるはずだ。気道を塞いで表現するバーナードの動転が付け焼刃だよ。まず第一に、どうてんする、深く混乱するのが先。彼らはクローンなのだから、同じ人の違う感情でもいい。深い感情、それが先決。何より聞きづらい。堤真一はソルターの気持ちがなかなかわからなかったといっていたが、数学教師はソルターの息子のクローンだから、この数学教師の疑問のなさこそ、クローン作製に突き進んだソルターのものである。ソルター変化がなくてつまらない。あんなに大勢息子がいるのに。

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