紀伊國屋ホール開場60周年記念公演KOKAMI@network vol.20『朝日のような夕日をつれて』

思えば『ゴドーを待ちながら』とは、一種の座敷牢ではなかったか。待つことは人をある場所に留めつける。「じきにゴドーさんが来る。」その言葉を信じてウラジミールとエストラゴンはそこに居続ける。言葉を変えると、出られない。ただ待つ、待つことは無為であり、無為でない。家族によって、または政敵によって仕組まれる座敷牢だけど、ここでははるかに深い意味を持つ。果たして救済はあるのか。

 80年代の鴻上は、停滞していてしかも明るいことがよしとされた時代に、同世代の私たちに向かって、とても大きな意味のあることを言った。ここは牢獄だ、しかもここは「お座敷」でもあるんだ。踊れ。笑え。どこにも出られない達者な役者たちが、きびきびとギャグを繰り出し、踊り、遊ぶ。四十年かけて、立花トーイの新製品は目まぐるしく変わり、とうとう今回は、現実を凌駕する「人生潰し」のVRゲームとなって、観ているものを脅かす。ゲームと実人生が交錯し、みよ子はかき消え人生は続く。痛みと笑いが、ゲームとみよ子のようにまじりあっていた、「あの頃のお座敷」のことを、ふと考えちゃうね。

 実はこの芝居を昔見たことがあったけど、もう筋はすっかり覚えていなかった。今回見て思い出した。五人の俳優がきびきびしていて、「動き」はかっこよく、マネしたくなるほどの踊りを踊る。以前と変わらない。特に安西慎太郎、「やりとげ」ていてびっくりした。けど、これには、少なくなってきた古い男芝居(ホモソーシャル的な…)の側面があり、鎧着てなきゃダメなのだ。そこが色気。丹田に力を入れるのと、玉置玲央くらい、台詞の「意味」を観客に伝えないとね。皆よくやっていて、「水も漏らさぬ仕上がり」と言いたいが、もっと楽しく野放図に遊んでほしい。遊びで弾けないと古く見える。限界を設けちゃいかん。過去のギャグの踏襲ではつまらない。あたらしい「遊び」はなかったのか。年配の観客は拍手しながら、首にVRゴーグルをぶら下げているように見えた。この芝居を通じて過去の自分を見ていたのだ。鴻上尚史もそうなのだろうか。この芝居の上演に、鴻上は何を見ているのか。新しい芝居待ってます。
#観劇

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