国立文楽劇場(大阪) 尾上右近自主公演 『第八回 研の會』

異色の自己犠牲(白水社カブキ・オン・ステージの裏表紙の惹句)。はじめもおわりもわからない、ほどけぬ糸玉のような『摂州合邦辻』に、ちょっとヒントだ。

 玉手御前(尾上右近)は継子俊徳丸(中村橋之助)に恋を仕掛けるが、実はその邪恋は俊徳をたすける方便で、玉手の生き血を鮑の盃で飲んだ俊徳は、病が癒えるのだ。どんな女も継子が苦手なものだが、玉手はそこを超越している。よい意味で、「世の常識」「世の習い」に反する。

 尾上右近の玉手御前は、二十歳になるやならずの若い娘だ。「母(かゝ)さん」と戸口で母おとく(尾上菊三呂)を呼ぶときは、玉手自身が子供らしい娘でないといけないのでは?右近の、ここが、弱い。玉手、おとく、父合邦(市川猿弥)の、3人の関係、親子のたたずまい(幽霊もさぞひだるかろうわい)とその情が活写されて初めて、玉手と俊徳丸、舞台には表れないが玉手と庶子次郎丸の親子の情愛が想像できる。玉手という役は、このかわいい娘であることの上に邪恋の思いを継子の上にかける悪い母も演じなければならない。こちらは、悪い意味で、「世の習い」を大きく逸脱するのだ。
観ているうちに糸玉がもつれてくる。玉手が顔を伏せると、その顔には涙がこぼれているような気がするのに、気強く顔をあげた途端、生一本の恋愛中毒のように見える。家族の愛と自己犠牲、そして邪恋と執着という二つの相反するものが、交差しあって作品を形作る。この感情の四つ角(辻)に玉手は立っている。

 舞台が狭いせいもあるのか、右近の台詞が矢継ぎ早で、おちついてそれぞれの心情に浸れない。あと、本当に初日だったから、後見に片袖外してもらう時などはらはらした。もっとゆったり見せてもいいのでは?疾走感ある芝居は若い者の特権だけど、この芝居はそういうわけにもいかなそうだ。空間を感情で充実させないと。最後の場面で合邦に抱きかかえられながら、渾身の力で(よかったなあ)と思ってないと、終わりがすっきりしない。中村橋之助、こないだから、声われている。どうした?



『連獅子』 右近の若さ、シャープさ、素早さがすべて投入され、たいへんに迫力ある連獅子だった。

 尾上真秀(まほろ)が右近の激しさに臆さずピリッとついてゆき、一回振りが一拍遅れたのと、毛ぶりの頭(かしら)が二回回らなかったのと、目につくとこが二つあったのだが、それよりも、その時(あっ…)とか思ってないのが伝わってきた。そこがいい。まずくったって、次へ次へと押し寄せてくる今を生きるしかない。文殊菩薩のおわします で上の方を見るとき、ちょっと高すぎ(そこは菩薩でなく神…)だったけど、皆全部自分の中で一綴りになっていた、自分の感覚で踊っている。振りが隅々まで体に入っており、軽やかに苦も無く踊る。最初の裡はふたりともぎゅっと視線を合わせているのだが、そのうち呼吸で踊るようになり、足拍子を聞きながら、獅子頭を操ったり、牡丹の枝を翳したりする。激しく、美しい。右近の親獅子が、仔獅子を見守る視線が、踊りの呼吸を合わせる人のそれと綯交ぜになり、過剰でない。とてもよかった。

 二人の僧(市川猿弥、市川青虎)が洒脱に笑いを取った後、高まる音楽が、息詰まるようで、華やかである。

 尾上真秀、言うことないんだけれど、カーテンコールでお辞儀するとき、お客見たまま頭下げない方がいいよ。#観劇#歌舞伎

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