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弟が亡くなった。

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弟が亡くなった。
僕より、2歳下だから70歳だった。
父親が65歳で亡くなっていることを考えれば、突然だったが全く予感していなかったわけじゃない。
小学校に入る前、僕はかなりやんちゃだった。ある日近所のK君と僕が喧嘩になった。すると弟は助けようと石を投げ、K君の額に怪我をさせた。弟はK君の両親に可愛がられていた。僕は行儀が悪すぎるのでK君のお母さんにいつも嫌われていたから驚かれた。

yugawara1953陽楽苑10月室伏写真館

1953年10月湯河原 家族

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1955年 国府台幼稚園 弟と母
小学校2年の夏、家の建て増しがあり、材木で剣を作って、弟ほか数人をひき連れて、国府台から1キロぐらい離れた国分に探検に行った。坂を下り再び登って林を越えると、あたり一面広大な畑になっていた。熟れ始めたトマトをもぎり頬張った。さらに進むとスイカ畑が広がっていた。まだ小ぶりののスイカが無数に転がっていた。木の剣で10個ぐらい割ってみた。どれも食べられるしろものではなかった。

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僕と弟 1955年 国府台幼稚園クリスマス

弟は父親に密告した。新聞記者だった父親を僕は恐怖していた。小学校に入るころ、先生に叩かれるような問題児だったからか。なにしろじっとしていられない。授業中教室をあるき回っていた。
父親は朝も夜も遅く、めったに会うことはなかった。問題は夏休みだ。顔を合わせたくないので朝はやく家をでて、中国分に住んでいたいガールフレンドを叩き起こし、出勤した昼過ぎに戻る。
すいか畑を荒らした数日後、父親に呼ばれた。怒られると思った。するとスイカ畑の場所を覚えているかという。数日後、父親と僕は、オート三輪を運転する、すっかり恐縮しているスイカ畑の主人と乗っていた。覚えているのは畑の赤土の一本道をしゅんとした、不思議な気分で揺られたことだけだ。
中学校は僕も弟も、越境通学で秋葉原にあった練成中学に通った。高校は僕は都内、弟は地元の私立高校に進んだ。お互い倶楽部活動に忙しく、一緒に遊ぶこともなくめったに会うこともなくなっていた。

国府台小 謙二1620

中央絵を持つ左側 弟 どちらの絵も弟作 鉄人28号

僕が日芸写真学科に入り、たまにしか家に帰らなかった、1970年の冬のある日、事件が起きた。弟は大学1年だった。三島由紀夫に影響されたのか、ガールフレンドの家の玄関で割腹自殺を試みたのだ。もっともお腹の傷はごくごく浅く、少し血がでただけだったのだが、精神科で見てもらうことになった。
その事件を僕は、治療のための家族全員での面接の時、初めて知らされた。
今ほど、精神科の治療が一般的ではない時代、入院させるか当時先端の治療法、家族ともどもカンセリングを試した。それは理想的かもしれないが、多忙な父親にとって、無理なことがわかった。結局通常の入院や通院する治療になった。
僕は写真家のアシスタントとなり、東京に住むようになり弟とめったに会うことがなくなった。
弟は大学を中退して、友達に紹介された肉体労働のアルバイトを続けた。
常時薬を飲んでいるので、かつてのような覇気なくなっていた。
1975年 アシスタントを経て、僕はフリーの写真家となった。
1979年8月、父親が突然倒れた。コーセー化粧品のロケで白根山のロケ中だった。脳血栓だった。ちょうどお盆の前で、懇意にしていた主治医が休暇中だった。ロケから戻り、病院で会ったときには、自分の知らない父親がいた。当時では難病でも、今では薬を飲むだけでも回復する病気だ。
父は懸命のリハビリを重ね、杖があれば歩けるようになり、障害は残ったが記憶はともかく、話すことは普通にできた。ただすぐに泣きそうな表情をするので困惑した。そして倒れた日と同じ1981年8月2日、
僕がガールフレンドと隅田川の花火を見た翌朝突然亡くなった。

その後、弟は母親と二人で暮らした。
市川の家は売り、1980年後半に伊豆高原に引っ越した。
今、母は99歳だ。
来年100歳の母親は、当時としては珍しい大学で文学を学んだインテリでもある。
父が倒れる前までは、俳句の同人でもあった。写真展の折り、俳句の会を主催している著名なアードディレクターにお母さん元気と聞かれたこともある。俳句はいまでも作っているようだけれど、もう発表することもない。
今はもうすっかり体は衰えたが、頭はしっかりしていて皆に驚かれる。
まだ、お金の管理や、弟の治療の手配など事務的なことは自分でやらなくては気が済まない。
今年の1月には転んで大腿骨を骨折して、この非常事態のなか2ケ月入院した。手術前、主治医に、この骨折で認知症になったり、死んでしまう可能性が多いと言われた。
しかしか2ヶ月後退院した。きちんとリハビリをして以前のようには歩けないが、伝い歩きはできるまで回復した。生活には問題がない。そしてあたまは以前のまま。元気だ。

弟がなくなり、母ひとりの生活が心配だが、伊豆高原には、介護のチームもあり知人も多くにいるので、本人は大丈夫だという。いつまで可能かわからないが。

精神病とは困った病気だ。いつのまにか統合失調症と呼び名が変わった。
今は新しい治療法もあるらしい。ただ、ひとりひとりその症状やその性格、生き方は違う。
弟の場合、暴力的な徴候はなく常に平和主義者だった。喧嘩といえば母親との口論はしょっちゅうだが本を読むか、テレビを見るか、パソコンでYOUTUBEを見るか。なぜか数学が好きで、しかも中学や高校の方程式を解いたりした。パズルのようなものなのだろう。
中、高時代、文章がうまく、僕とよく比べられたが、途中から文章を書くことはなくなった。飲んでいる薬の関係もあるのかもしれない。たしかにひとつのことをする持続力がない。文章を書くには集中力の持続が必要だ。
僕は40歳ぐらいまで、ことばは写真の敵だと思っていたので、文章はあまり書かなかった。理想は、ことばを拒否した写真を撮りたいと思っていたからだ。必要なら文章を書くが、写真とは違う世界として独立していた。
今は、言葉も写真も同じように、思いや、アイデアの、ほんの少しのことしか表現ができないということが分かったのでの、素直に書けばよいと思う。だからつらつら、意味もなく書けるようになった。

僕と弟の関係は、常に僕は彼の兄であり、恐れと疎ましさと嫉妬に揺れていたのだろう、うちとけることはなかった。
時々妄想のようなことを何度も言われるので、「うるさい」とブチ切れることもあった。怒る原因はいつも、糖尿病患者の生活についてだ。
タバコや酒、糖分などなど、糖尿病を治すための努力が、精神病のせいでできないことだった。露骨に、無理ですね、と何をしても無駄といった態度の医者もいた。
体調が悪化すれば入院することの繰り返しだった。
母親と一緒の時は、わがまま放題。
母親が、今でも頭脳明晰(面倒くさいこともある)なのは、
そんな息子を守るため、常に現実と向き合っていたからかもしれない。

そんななかで、大きな転機は、5年ぐらい前におきた。それまで母親はひとりで東京にでてくるぐらい元気だった。弟も一月に1回、診療のため船橋にある病院にひとりで通っていた。彼の唯一のストレスの発散だったのだろう。
年齢も、無職でOKの普通の老人となっていた。
40代、50代のように無職でぶらぶらしているとなにか疑われる視線もなくなった。本人は案外楽しかったのかもしれない。
ただ糖尿はさらに悪化していた。
水分や糖分、食事のコントロールは家にいる限りはまったくできなかった。
欲望のまま。
母親が、口うるさく言っても、やはり本人の意志しかない。入院しない限り無理だ。入院させると、毎日のように退院したいと電話がある。
結局、やりたいようにするのが、
本人の希望だからそれで命を縮めることはしかたがないと結論した。
そんな5年前、母の調子が悪かった時、糖尿からくる足の壊疽になり左足を膝上から切断することになった。
体力のない老人の身体障害者になってしまった。
最初義足は無理だと言われた。訓練しなければ義足で歩けないからだ。
その体力と根気がないといわれた。
心の病を持っていても、基本、自分の意思で動き移動することができる。危険な場合を除けば健常者と同じ生活ができる。つらければ休み休み、動けるなら自在だ。
しかし、片足の人間は、狭い日本家屋では、赤子のように這って移動するしかない。
トイレにいくのもままならない。若ければ、死にものぐるいの訓練することもできるだろう。
なにより片足を失ってから、弟は、僕のために、母のために、何かすることを失った。ささいな手伝いさえできなくなったのだ。自分のことさえひとりでできないのだから。
可愛そうだけれど。弟と僕の関係は以前以上に、上下関係となり、悪化し、
僕は弟に何も、望まなくなった。
足があったときは、かなりいろいろ手伝ってもらった。
言えば何でも、頑張ってやってくれた。
ギブアンドテイクの関係は美しく成立していた。
そして2年前から透析がはじまった。

弟は、やはり不自由だったのだろう、義足のリハビリを頑張った。
なんとか、バランスを取りながら歩けるようになった。
這うより自由になったけれど、動くたび介助は必要になった。
10年以上前に、ワープロを教えた。その時は覚えても、
会わずにいるとすべて忘れてしまう。隣にいて指図すれば、Googleの検索ぐらいはできる。ひとりにすると検索もしない。クリックだけでパソコンを使う。この5年すっかり頭も衰え、毎日ひたすらYOUTUBEを見ている。
もしくは、DVDを業者から買い、古い映画やドキュメンタリーを見ている。
そんなDVDが200枚ぐらいある。その中の気にいったものを、一日何回でもくりかえして見る。
彼と最後にあったのは、一月ぐらい前だった。僕がNetFlixを見れるようにした。面白そうなタイトルをホーム画面にブックマークした。
でも、見た形跡はなかった。
彼は、自分がみたいと思わない限り見ることはない。
ちょっと寂しかった。あの映画面白かったね。といった会話さえ生まれなかった。

7月19日、夕方、母親は一緒にテレビを見ていた。
弟は、母親に、「浅原先生は英語はどのくらいできたのですか」と筆談した。母は家にいるとき補聴器を面倒くさがるのと、弟の発音がはっきりしないことも原因だ。コミュニケーションには筆談が早い。
浅原先生とは、浅原六朗のことだ。てるてる坊主の作詞家でもあるが、戦前は新朝社の流行作家だった。後に日大文芸で教えて、母親の恩師でもあった。浅原先生の名をだすことは、弟は機嫌をとっているのかなと母親は思った。「英語を話すはそんなに得意じゃなかった』と答えたという。
その後、ベランダの洗濯ものを取り込み振り返ったら床にうつ伏せに倒れていたという。すぐに救急車を呼び、15分ぐらいでやってきて、蘇生を繰り返したが戻らず、熱海の病院に搬送され6時45分に死亡が確認された。苦しまずあっけない死だった。
実際は4時30分に心肺停止となっていた。僕が熱海の病院にかけつけたのが午後10時半ごろ。自宅でなくなったので刑事が来ていた。母親と一緒に自宅に戻ったのが翌朝1時頃。事件性はないとして調書をとって帰っていった。

7月23日PM5時、弟は骨だけになった。足を切断した時に火葬したちいさな骨壷におさめられた骨と、今回のための骨壷に一緒にした
母親は「やっと足が戻ったね」、と言った。

合掌

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2018年熱海の病院にて

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