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僕の写真人生のスクラップ!

SCRAPS 1949~2018  横木安良夫
そこから眺める風景は、蛇行した江戸川と対岸の河川敷、その先の堤防の
背後にひろがる煙のフィルターに霞む葛飾の町工場、それらがどこまでも
広がっていた。天気のよい夕景はシルエットになった富士山が小さく見え
た。
ツツジが咲き乱れる崖を駆け下りるとすぐに川面にたどり着いた。土
砂を運んでいるのだろう、ポンポン蒸気船がひっきりなしに往来している。
国府台台地の端に建つ保育園は兵舎を改造した木造の古い二階建てだった。
室内は簡素だったが広々として天井が高かった。室内には大きな積み木や
西洋の樽など、当時の日本の玩具とは全く違うもので溢れていた。すべて
がアメリカのルーテル教会から寄付されたものだと大人になってから知っ
た。ぼくはアメリカ製の遊具や玩具で一日中遊んだ。時々悪さをすると樽
のなかに放り込まれた。泣きながら見上げると樽の丸いフレームから不気
味な木目模様の天井が見えた。
屋外は砂場と滑り台があった。時々カメラを持った人が現れて写真を撮った。ワシントンハイツの写真館から派遣されてきたらしい。それも後で知ったことだ。すぐ隣が市立一中で、下校時間には、幼児たちの撮影が珍しいのか、生徒たちがフェンスに鈴なりになり一緒に写っている写真がある。
クリスマスは大イベントだった。ぼくは4歳のときヨセフ、6歳の時に三賢
人、博士を演じ「わたしは乳香をさしあげます」というセリフまであった。
そんな環境で賛美歌をたくさん覚えた。
幼稚園を経営していたのはエーネ・パウルスだ。ぼくたちはパーラス先生と呼んでいた。すでにその頃はシルバーの髪をなでつけた60歳ぐらいの品のいい初老の外国婦人だった。簡単な日本語を話したが、知らないことばも聞こえていた。
ぼくはパーラス先生が戦後マッカーサーと一緒に日本にやって来たのだと
ずっと思っていた。ところが大人になって調べると大正時代、20代で日本に宣教師としてやって来ている。コロンビア大学で神学を学び、社会の役にたとうと海外布教を望んでいた。行くべき候補は二つあった。ひとつはアフリ
カ、そしてもう一つが日本だった。アフリカは貧しく、日本は女性の人身
売買が有名で心を痛めていた。
すでにパウルスの姉が九州で先に宣教師をしていたいので日本に決めた。
姉の手伝いをしたのちに市川にやってきた。そこで教会を建て孤児院を作
った。太平洋戦争末期には、オーストラリアに逃れた。
日本の敗戦後、GHQの制止を無視して市川に戻ってきた。そして保育園や
孤児院を作った。たとえ聖職者といえ、今思えばとんでもない偉人だった
のだ。
65歳の定年をもってアメリカに帰った。それからしばらくして保育園は(内容的には日本の幼稚園とは比べ物にならない素晴らしい設備だった)認可幼稚園となり、ごく普通の日本の幼稚園になった。パーラス先生の帰国後も孤児院や女性のための施設は今でも機能している。
3月生まれの僕は、小学校に入ると問題児になっていた。なにしろ保育園で
3歳から6歳まで毎日自由に遊び回っていた。小学校の教室の椅子に縛り付
けられることが耐えられなかったのだろうか。実はよく覚えていない。結
果、しょっちゅう廊下に立たされいつも先生にビンタされた。
ある時、顔に手のあとがあることに驚いた、新聞記者だった父の友人の通信局長が、民主主義時代に暴力なんてけしからんと教育委員会に訴えると大騒ぎになった。母親は僕の悪行を知っていたのでただでさえ肩身が狭いうえに学校で深刻な問題になり、とても迷惑だったという。その先生はそれが原因だけではないそうだが、翌年違う小学校に転勤になった。その頃の僕は記憶のなかの風景で教室を歩き回来回っていたことは覚えてい
ても、自分の心の中はまったく覚えていない。  
2018年50年ぶりに小学校の同窓会があった。その時出席はしていなかったが、連絡先がわかったY子に後日会った。彼女は僕にとって特別の女性だった。最初は忙しいので会えないと言っていたが、結局あってくれることになった。荒川区のレストランで再会した。70歳とは思えないほどしゃんとしていて美しかった。顔の輪郭はそのままちょっとジョージアオキーフに似ていると思った。
彼女は高校卒業後、1年間就職しお金をため、貨物船でアメリカに渡った。2年と3日アメリカに滞在した。そのとき定年したパーラス 先生のところに遊びに行ったという。自給自足する生活の手伝いをしたという。
ぼくをビンタした先生を、Y子は悪くいわなかった。彼女の祖父が経営していた姉ヶ崎の海の家によく遊びに来て一緒に遊んだという。昔からY子は寡黙だった。母親が特別おしゃべりだったのでそれがいやだったと言った。美人で運動神経がよく、男勝り、勉強もできた。ぼくはY子が好きだった。
少し素行の落ち着いた3年性の夏休み朝11時ごろ出勤する父親と顔を合わせたくないので、毎朝6時に起きてはY子が寝ているのをたたき起こした。そして午前中一緒に遊んだ。彼女の家の周りはまだ住宅もなくかっこうの遊び場だった。
彼女に言わせると、低学年の時のぼくは、とても困った存在だったらしい。
暴力的で落ち着きがなく、彼女は何度も噛まれたという。ところが彼女の母
親は、ああいう子は寂しいのだから、嫌わないで優しくしなくては、と言わ
れそれを守った。どうやらしかたがないので優しくしたらしい。
彼女にすっかり懐いていたぼくは、実は彼女の寛容さの成果だと知り驚いた。好意の逆だったのだ。クラスが変わると疎遠になったが、時折話をした。ぼくが大学に入り学園紛争の頃だったろか、彼女がアメリカから戻ってきて連絡があった。
ー略ー
あとは、写真集でお読みください。


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