見出し画像

Perfumeのライブを直前に女王蜂を聴き直す週末

不要不急の外出、という言葉に違和感を覚える。だって自分にとって今入っている予定は必要なことなことだ。
とはいえ、実際に新型の肺炎が広がってるのは事実であるから、なんとなく必要のないときは外に出たくない気はする。それでも一日中家で過ごすことはあまりない。

そして案の定、様々なイベントごとに新型肺炎の影響が出はじめている。海外アーティストの来日が延期になったりサンリオは閉園したり、都のイベントが中止になったりしている。
それでもPerfumeの東京ドーム公演は予定通り開催される。僕個人一ヶ月以上前にチケットを友人経由で取っていたから、そのアナウンスが出たときになんとなく複雑な気持ちになった。過剰に不安になりライブやエンターテインメント業界全体が自粛ムードになる必要はない、というメッセージが伝わってきて、勇気をもらったのも事実だ。その一方で、もうそんなことを言ってる段階ではないのではないか、と少し不安なのも事実だ。
ともかく、何事もなければいいとしか言えないし、どんな状況でもPerfumeのライブを楽しめることには変わりはない。

こんな話をしていてもしょうがないので、Perfumeの話をしよう。
実はPerfumeのワンマンライブに行くのは初めてだ。フェスでは何度も観てきたし、昨年のサマーソニックでもフロントエリアにいた。なんなら彼女たちがテレビに出ていたらほとんどチェックするし、新しい曲が出る度に聴く。2011年にリリースされた『JPN』は発売日に購入し、いまでも家に置いてある。

しかし、Perfumeを深堀って聴いたり、ライブを観に行こうという気にはならなかった。なぜなら、圧倒的に完成されすぎているからだ。

Perfumeのソングライターである中田ヤスタカはいかにもわかりやすいJ-POP然とした楽曲を作る一方で、海外のダンスミュージックシーンとリンクした新しいタイプの日本語ポップスを生み出してきた。何度も語り尽くされているが「ポリリズム」のリズムや、「If You Wanna」におけるフューチャーファンクとの接近、「FLASH」や「無限未来」におけるEDM的アプローチはその最たる例だろう。

そうした楽曲は3人の透明感のある声によってキュートなポップソングに変換され、世の中に届いた。
いわば音楽文化の進化を大衆に伝える役割を15年間担い続けたのがPerfumeなのである。音楽文化と大衆芸能をつなげる役割として、彼女たちはあまりにも完成されている。

もちろん、それだけではない。素人目に見てもステージパフォーマーとしても、彼女たちは完成されているようにも思える。
3人はライゾマティクスが作る近未来的な映像のなかに入り込むかのような、いや映像が立体的に浮かび上がるような踊りを、ステージで披露する。その演出は動きが数ミリずれただけも成立しない。しかし彼女たちは、毎回寸分の狂いもなく踊る。

いつもそんなステージを観るたびに、映像と100%リンクする振り付けをするMIKIKOもさることながら、そんな踊りをいとも簡単そうにやってのけるPerfumeにも感服する。そんなパフォーマンスを見せつけられてしまったら、僕はただそれに圧倒されることしかできないのである。

もはや、自分の言葉や感情を介在される隙もないように思えた。だから僕は好きなアーティストとしてPerfumeの名前を挙げることもなかったし、Perfumeファンと名乗るものおこがましい、とすら思っている。


そのぶんPerfumeファンが語る彼女たちの魅力や、Perfume論を聞いたり読んだりするのは面白い。感情や言葉を介在しにくい分、メンバーの関係性や歴史に対する愛着やグループに対する的確な指摘が多いからだ。

そのうちの一つが女王蜂のフロントマン、アヴちゃんが語ったPerfume論だ。

Perfumeって、替えが効かないシステムなんですよ。あの三人は、ダンスをはじめとした様々なものを媒介にして、普通ではありえない何かを呼び出している感覚があって。いわば、Perfumeは巫女なんです。なので、私にとってPerfumeは、すごくホーリーなものだったんですよね。
(CINRA.NET 女王蜂×MIKIKO対談)

アヴちゃんの「巫女」という表現は、彼女たちの圧倒的な完成を表現するのにふさわしい言葉だろう。そこからアヴちゃんはPerfumeに憧れ表現者を目指した。そうして生まれたのが女王蜂だ。2010年に結成されたこのバンドは、情念に満ち溢れた物語をロックサウンドにのせて歌った。アヴちゃんは、歌の物語に入り込むように歌い、Perfumeのような巫女であろうとした。

それから7年後。女王蜂がたどり着いたのは、ダンスミュージックであった。

そうしてリリースしたアルバム『Q』は、アヴちゃんの物語るような歌詞とエレクトロファンクやディスコのサウンドが融合した作品だ。ダンスミュージックと接近することによってアヴちゃんの表現はさらなる身体性を獲得したように思える。

そしてその後も、女王蜂のダンスミュージックは独自の進化をしていく。
2019年のシングル「火炎」はドラムンベースのビートとトラップのビート、さらにはEDMのドロップのようなギターソロが入り乱れる。

そこにアヴちゃんの低音から高音を巧みに使いこなした歌とラップが乗ることによって、カオティックでありながらダンサブルな楽曲を生み出した。歌詞においてもそうした音像とリンクするように、炎のように揺れ動く感情を描く。まさにサウンド、歌唱、言葉のすべてがリンクするさまは、Perfumeの表現に通じる部分がある、といってしまうのはいささか強引だろうか。

そして先日リリースされたアルバム『BL』はそうしたサウンドの集大成だ。収録された8曲それぞれには固有のストーリーがあり、それをアヴちゃんが表情豊かな声で歌う、という点はデビュー当時から一貫している。しかし、サウンド面においては大々的にヒップホップ、エレクトロのサウンドに傾倒し、約半数以上の楽曲が打ち込みのビートを中心に構成されている。

とりわけギターリフとピアノのループに、トラップのビートが重なるリードトラック「BL」は、トラックとしての洗練が素晴らしい。このビートの上で、どんなラッパーがラップをしたら面白いかを、ついつい想像したくなる。


もはや女王蜂はバンドであることを志向していないのかもしれない。Perfumeのように、4人でやることの必然性を追求し続けているのが女王蜂なのではないだろうか。

Perfumeのドームライブに行く話からずいぶんと長くなってしまった。
けれども不要不急の外出をしたくない週末にPerfumeと女王蜂を聴くのも、なかなか悪くないかもしれない。

(ボブ)

【今週の1本】
「バイス」(2018)


ブッシュ政権下の副大統領ディック・チェイニーの半生を描いたコメディ。実在の人物でありながら秘密主義者であるため、わからないところをはぐらかすのだけれども、そのはぐらかしかたにモヤモヤする。けれどもクリスチャン・ベールの役に入り込んだ演技やサム・ロックウェルの飄々とした演技には魅入ってしまう。あらゆる事象を自分の利益や権力のために操ろうとする為政者の陳腐さは、この時期に観るとなかなか笑えないかもしれない。

サポートは執筆の勉強用の資料や、編集会議時のコーヒー代に充てさせていただきます