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念願のナンバーガールを見に行けなかった日から。

なぜ、2020年3月1日のzepp tokyoに森山未來がいたのだろう。
何を映そうとしたのだろう。カメラに向かってはなたれた銃口と紙テープの映像が、今も脳内でリフレインしている。

向井「今回の再結成においては、ちょっと引いてる部分もあるわけですよ。今でも、もちろんZAZEN BOYSだったりで1つの世界を作ることはやってるわけだけど、これまでライブを見たことがないっていう人たちに聴かせたいっていう気持ちが大きいっていうのもあって、みんなが何を聴きたいのかなっていうのを聞いてみたいよね」
(https://ototoy.jp/feature/2019050801)

ナンバーガール再結成アナウンスされた頃のインタビューを読み返す。
他のメンバーが音楽活動をしていることから、向井は「稼ごうや」を誘い文句に使い、それは本心でもあると語っているけど、あの無観客ライブは稼ぐことよりも「聴かせたい」が勝ったからこそ決行されたはずだ。

しかし、無観客状態については触れないまま、2時間超のライブは終了する。そのせいか、カメラに向かって放たれた空砲が、自分への挑発に映った。「俺に生で聴かせてくれるために復活したんじゃないのかよ!俺は何をやっているんだ、森山未來はそこに居たじゃないか」理屈じゃない、胸をかきむしる衝動が爆発した。ただただ悔しい気持ちは、何杯飲んでも消えなかった。

言葉が無かった分、森山未來のダンスに自分の感情を投影してしまったのかもしれない。マスクをしたまま跳びあがり、転がり、廻り、ステップを踏む。ステージに駆け上がり、煙草に火をつけ、首を振って両手をあげる。本来ならばギチギチで、雄たけびや歓声や咆哮がそこら中で湧き上がったはずのフロア全体をたった一人で踊り散らかした数分を、ただのエンターテインメントとして見ることはとてもできなかった。

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現時点でも様々なイベントが「中止・延期」を発表していて、文化やエンタメがローラー作戦で破壊されていく錯覚すら覚える状況が続いている。そのなかで決行される「無観客ライブ」は、「ピンチはチャンス」思考で乗り切った美談として消費してはならない。渦中のバンドやスタッフがどれ程圧迫されたのか、様々な情報や説明、感情の吐露を眼にするうちに嫌でも想起される。
ナンバーガールの裏(YouTubeでもこんなことが起こるとは)では、横浜アリーナでの無観客ライブを開催・配信したBAD HOPが、開催に至った経緯や金銭的な現状をカメラに話した。言葉の有無や決断の優劣を問わず、無料のYouTubeで彼らのライブを見たときに感じた悔しさを、僕は何よりも覚えておきたい。

俺たちの代わりにアーティストやスタッフが選んでくれたのだ。選ばされたのだ。俺たちは何もできなかった。
音楽特番並のカメラワークに勘違いしてしまいそうだけど、あれは、情熱だけでなんとか「見せてやろう」とする人たちによる修羅場の目撃であり、他のジャンルに応用可能な代替手段でも、「以降」のどこかで引き合いに出してしかるべき正解例でもないはずだ。

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僕は、ナンバーガールの他にもう一枚チケットを持っていた。そのライブが開催されるとアナウンスされた日、主催者であるヒグチアイ本人が発した言葉を起こしておく。

正解不正解の分からない中で、私は”やる”の答えを出しました。自分で選択するしかないんです、今。誰も決めてくれない。大規模イベントって何人からのことですか?ということも。来るも来ないも選べる。でもどちらになったからって愛は変わらない。一生懸命考えてくれてありがとう。精一杯、うたうよ。(2020.2.27)

マスク姿の約300人が集まったライブは、選んだことを気負わせない工夫と愛と音楽に溢れたまま幕を下ろした。人生における選択や、社会における自分(女)についてを歌い続けるヒグチアイとNakamura Emiのステージは素晴らしかった。

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演劇でも、当日券を買う予定だったマームとジプシー『ねじまき鳥クロニクル』と、取り置きしていたコンプソンズの公演が中止になった。音楽に比べ、コスパが圧倒的に悪い演劇業界が被る被害も甚大のはずだ。次回以降の公演を観に行くのはもちろん、こういうときに、自分を支えてくれる人たちにお金を落とせる生活を早く手に入れたい。

池袋芸術劇場の芸術監督を務める野田秀樹も、自身のホームページ(野田地図)で発表した意見書が話題になっている。若い人こそ演劇をみるべきだと宣言し、芸劇でかかるほぼすべての作品を高校生が1000円で見られる仕組みを作ってくれた恩人だ。

この困難な状況でも懸命に上演を目指している演劇人に対して、「身勝手な芸術家たち」という風評が出回ることを危惧します。公演収入で生計をたてる多くの舞台関係者にも思いをいたしてください。劇場公演の中止は、考えうる限りの手を尽くした上での、最後の最後の苦渋の決断であるべきです。「いかなる困難な時期であっても、劇場は継続されねばなりません。」
(https://www.nodamap.com/site/news/424)

劇場や寄席、ライブハウスがそこで営業を続けること、文化の発信地が存在し続けることは、僕たち消費者がエンタメを手軽に楽しめる技術の発達とは全く異なる意味があると信じている。
新たな文化が生まれていく土壌であり、成長や目標や前向きな気持ちのようなかったるいものを求めない生活者のオアシスは、そこにあることがまず一番の意味だ。失われていいわけがない。
でも、芸術が「不謹慎・自粛」といった空気感や、建物や設備の欠陥・損傷を乗り越える強さを持っていたとして、感染症という目に見えない「リスク」とはどう向き合っていくべきなのだろう。
芸術がサガでもシノギでもある人たちを、これ以上くたばらせるわけにはいかないけれど、判断を誤らせるような無理な意見も言えない。その狭間で何も出来ず、言い出せない無力感から抜け出せない。

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マームとジプシー『BOAT』のラストシーンで、島の劇場に火が放たれると、主人公たちを乗せたボートは燃え盛る劇場を背に海へ脱出する。海が広がる客席の方へ放たれる言葉は忘れない。

これは、祈りなんかじゃない。
繰り返さない。
未来は、あるか

繰り返さない前例になって欲しくない。これ以上未来を疑いたくない。もちろん、日本にくたばられても困る。どうすればいい。

大学最後の一年間、改めて自分の今後について察知させてくれたのは、台風一過の日曜日に開催された「全感覚祭」や、戦争や震災と向き合う古今亭志ん朝を描く『いだてん』だ。
自分で価値を決めて選ぶこと。自分は社会に属していること。自分の公と私に責任と愛を持つこと。「いざというときには無くていいもの」と切り捨てられそうになったモノに僕は学んだ。何かを選ぶことができないが、せめて、「いざというときには無くていいもの」なわけがないといい続けたい。何も考えずに存在を否定して圧迫していいものなんて何もないはずだ。

夜、焼野原となった東京の瓦礫にひらりと飛び乗り、仲間の死を飲み込めないながらに正座を組み、ひとり稽古を始めた志ん朝を演じていた男は、別の夜、何一つ外傷の無い東京のライブハウスで、目の前のバンドが見たくて見たくて堪らなかった何万人の魂を一度は背負い、踊り、放った。

森山未来、ありがとう。
そう言うしかないスマホの前から、今もまだ動けない。

【今週のテーマは「前線」でした】

(オケタニ)
https://note.com/laundryland

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