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「社会人」という言葉への違和感と『時間のかかる読書』

4月になった。いわゆる新年度の始まりだ。
アララも「東京の大学生3人組」ではなくなった。無事に3人とも大学を卒業し、それぞれ企業に就職したからである。そこで、ある問題にぶつかった。いまの私たちはどう名乗ればいいのだろう?と。例えば、このような名称が思い浮かぶ。

「東京の社会人3人組」

学生ではなくなった。ならば次の肩書きは一般的に「社会人」である。しかし、この言葉に大きな違和感を覚える。学生は「社会人」ではないのか、と。学生だって、少なからず社会に参加しているはずだ。物を買えば消費税も払うし、18歳以上になれば選挙に行く。多くの学生はアルバイトをするわけだから、場合によっては仕事のようなこともしているわけだ。そもそも、親の庇護の下に居て勉強をしている身分の人を、「社会人ではない」と言い切ってしまうのはおかしい。だから学生ではなくなった途端に「社会人」と呼ばれることにも違和感を覚える。だから、僕たちは「社会人」という呼称は使わない。ならば、この呼称はどうか。

「東京の会社員3人組」

「社会人」よりはマシな言葉だ。会社に勤めるようになったのだから、もう我々はれっきとした「会社員」である。しかし、「学生」という言葉に比べたらフレッシュさが欠ける。別に会社員がフレッシュではないという意味ではないし、僕たちはフレッシュさを目指していたわけではない。それでも「東京の大学生」と名乗っていた5日前に比べ、「会社員」と名乗ることで精神的な隔たりが生まれてしまう。アララは無邪気かつルーズに現行のポップカルチャーにワクワクしている人の集まりだ。暇で、様々なことを考える余裕のあるからこそそれができるのである。だから「会社員」というセカセカしたイメージのある言葉は似合わない。よって、この呼称も使わないことにする。

結局苦し紛れにこの呼称を採用した。

「東京の20代3人組」

いかにも暇そうでルーズな3人組だ。「東京」と「20代」という単語が並ぶと、ややいけ好かない雰囲気も漂うが、悪くはない。とりあえずアララは「東京の20代3人組」になった。

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前述の通り、4月1日から会社へ行くようになった。朝7時に起きて、8時に家を出る。ほんの少し前までは、昼過ぎに起きて夕方に家を出る生活だったのに。まさに新しいパターンの生活、「新生活」が始まったのである。

今までの生活と一番異なるポイント、つまり新しくなった点は、暇な時間が減ったということだ。当たり前だ。1日のうちの8時間近くを会社に拘束されるのだから。ここ数年は暇な時間が生活の中心だったため、端的に言えば困惑している。

ただ、悪いことばかりではない。音楽を聴くとき、映像を観るとき、本を読むときに、集中力が増したような気がするのである。これは驚くべきことだ。「時間が限られている」という意識が、そうさせるのであろうか。

幸いなことに音楽を聴くことや映画を観ることや、本を読むことは、相変わらず続けている。といっても、まだ会社に通い始めて3日しか立っていないのだが。この先はわからない。

ひとまず、通勤3日目の電車の中で聴いたThundrecatとYves Tumorの新譜は最高だった。

ファンクとジャズに深く潜り込みながらR&Bをより美しくダンサブルなものに昇華させらThundrecatと、R&Bのビートにグラムロックの芳醇さと、オルタナティヴ・ロックの鬱々としたギターサウンドを取り入れたYves Tumor。それぞれ違うアプローチで、ブラックミュージックをアップデートしている。

こんな素晴らしい音楽が生まれてきているのに、音楽を聴かないなんて選択肢はない。
たぶんこの先も、僕は新しい音楽を聴き続ける。

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本当は最近通勤中に読んでいる本の話をしようと思った。宮沢章夫氏の『時間のかかる読書』の話だ。「11年間かけて横光利一の『機械』を読む」というコンセプトの評論書なのだが、文中に出てくる単語の一つ一つに時間をかけながら考えを巡らせていく文章が心地いい。普段なら見過ごしてしまう単語や描写を深掘り、潜り込んでいくと、新しい事実や思考にたどり着く。

あらゆるものを効率よく早く摂取しようとする時代において「時間をかけて読む」ことは、ある種の抵抗であり、新しい思考の入り口になるのかもしれない。

だから僕も、この本をできるだけゆっくり読む予定だ。

社会人や新生活という言葉に流されてセカセカしてしまわないように。

(ボブ)

【第52週目のテーマは『潜水』でした】

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