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美意識が宿る場所

おとといの午前中は、年内最後の打ち合わせがあった。

大事な打ち合わせで、しかも家から1時間半とけっこうな遠さがある場所での予定だったので、朝に弱く、なおかつ心配性な私は「絶対に遅刻しないように」と、早めに家を出て、近くのマクドナルドで朝マックをした(たまに食べる朝マックはおいしい)。

その打ち合わせとは、簡潔に言うと、とある方に、とある仕事を依頼するためのものだった。私ともうひとり(Aさんとする)、計ふたりで臨み、私はサポート……というのもなんだか偉そうでしっくりこないのだけれど、まあ、かんたんな言葉で言うならば、そのような役回りだった。

その「とある方」に「とある仕事」を受けてもらうことで、世の中の人々の体温が少しあがり、やさしくも強い何かを人の心にそっと植えることができるはずだと、私とAさんは信じていた。この話を最初Aさんからいただいたとき、ぜったいにいい仕事になる、と思った。打ち合わせの1時間のあいだ、ありったけの思いをぶつけ続けるAさんを隣で見ながら、緊張と、不安と、感動と、尊敬とで、心がずっとさわさわと鳴っていた。

でも、結果はダメだった。

「このお仕事を受けられないのは、ぼくの美意識の問題なんです」

その人は、やるべきとか、できるとか、世の中のためになるとか、昔からの大切な知人であるAさんの依頼だからとか、そういう次元の話ではなく、「自分の美意識の問題」なのだと言った。

美意識。

それを聞いて、Aさんは、ぼそっと呟く。

「完敗です」

残念だった。残念だったけれど、「美意識」という言葉を聞いたとき、私もAさんも、ああ、本当にダメなんだ、と、ある種の覚悟を持ったような気がする。

そしてこの時私はぼんやりと、美意識とは、「できるのにやらない」ことにこそ宿るんだなあ、と思ったのだった。

たとえば、「できないことをやらない」というのは、美意識ではない、と私は思う。Amazonの使い方がわからないから実店舗で買うだとか、パソコンの使い方がわからないから紙を使い続ける、だとか。「できないことをやらない」というのは「できないから、やれない」とも同義であり、至極当然、当たり前のことだ(それが、あえてできないことを選び続けているならさておき)。

同じように、「できることをやる」というのも、美意識とはずれているように思う。Amazonを使えるから使う、お金があるから買う。ここに美意識はあまり感じない。

では、「できないことをやろうとする」はどうか? これは、少し美意識に近づくかもしれない。できないことをやりたいと思う姿勢には努力が伴い、その努力には多くの場合、美しさが伴うからである。でも、これは以前にもnoteで書いたことがあるけれど、「美意識」より「祈り」に近いのだ、と私は思う。

これらの四象限を考えてみても──やっぱり、「できるのにやらないこと」にだけ、たしかにそこに、「美意識」が宿っているのである。

たとえばそれは、作った本をAmazonでかんたんに流通できるのにあえてしないことだったり、パソコンを使えるのに紙で書き続けることだったり、自分のモテる髪型をわかっているのにそれでも個性ある髪型をし続けることだったりする。そういった、「できるのにやらない」ことには、人それぞれの「自分が美しいと思う世界が何なのか」という感覚が見事に投影されていて、考えれば考えるほど、仲の良い友達や尊敬する人たちの美意識が眼に浮かぶ。

今回の「とある人」は、「とある仕事」を確実に「できる」人だった。絶対にできる人だった、なのに、やらないと言った。そこには明確な美意識が存在して、なんともそれを、私は美しい、と思ってしまったんである。

同時に、私の「美意識」は、どこにあるんだろう? そんなことをふと思う。

割と、自分ができることはなんでもやり続ける人生だった。やりたいことの範囲が広い人間なので、仕事でもプライベートでも、「ちょっと自分の興味と違うかな」と思ったとしても、それが、できることだったらやってきた。私は、もしかしたら今までの人生で、美意識を持ったことがあまりないのかもしれない。

私の「美意識」は、どこにあるんだろう? 年末最後の打ち合わせ、大きな問いをもらったような気持ちになる。

社会人5年目、少しずつできることが増えている今、どうやら私には、「美意識」を育みたいという気持ちが、ニョキニョキと芽生えているのかもしれない、そんなことを考える日曜日。もうすぐ今年も終わりだね。


ありがとうございます。ちょっと疲れた日にちょっといいビールを買おうと思います。