「はじめまして」の大切さとどうしようもなさについて
はじめて誰かに会う時に、今日はちょっと調子が悪かったな、と思う時がある。はじめましてだったのになんだかよくない印象を与えちゃったかな、と少し反省する。
逆に、今日はちょっと調子が良すぎたかな、と思う時もある。いつもはこんなに調子よくないねんで、と、心の中でついつい伝わることのない保険をかける。
大学生のときは、毎日毎日、ばかみたいに同じメンバーと一緒にいることが多かった。毎週繰り返される大学の講義や、意味もなく集まる食堂や中庭での意味のない会話。第一印象が最悪だったとしても、一緒にいるうちにその人のいいところがだんだんと見えたりして、気づけば最悪なイメージは消え去り、時には恋をしたりもした。
第一印象なんて変わるものだ。そう思っていた。
けれど、社会人になってから、新しく知り合った人と「頻繁に会うこと」はめっきりと減ってしまった。
中には社会人になってから出会い、頻繁に会うようになった友達もいるのだけれど、出会いの多さに比べるとそれはとても少数で、一度会ったら次は半年後、なんてことがざらにある。
だからなおさら、社会人になってからの「はじめましての大切さ」を、ひしひしと感じるようになった。
誰と、どこで、どのように出会うか。友達に紹介されるのか、飲み会で知り合うのか、ビジネスシーンで出会うのか、どこかのイベントで出会うのか。
誰かとの出会い方によって、その人との関係性ができあがってしまう割合が高くなってしまった、気がする。
そんなとき、これらすべての「はじめまして」の瞬間を、コントロールできれば楽なのにな、と、ふと思う。
気が合いそうな人や、自分の弱さを見せられそうな人とは、できるだけフランクな場所で。なんだかわくわくする面白いことが一緒にできそうな人とは、ビジネスシーンやイベントで。好きになれそうな人とは、できるだけロマンティックな場所で。
そんな風に、はじめましてをカスタマイズすることができたなら、と思うことがある。
けれど同時に、はじめましての瞬間というのは、きっといつだってどうしようもないものなんだろうな、とも思うのだ。どうしようもないからこそ緊張し、どうしようもないからこそ運命を感じ、どうしようもないからこそ、大切に思える。
はじめましての瞬間を、いつだって大切にできる人でありたい。そしてそれと同時に、はじめましてが全てではないという感覚も、忘れずにいたい。自分が見る「はじめまして」の相手は相手のほんの一部分であって、それだけで判断してしまうのはもったいない。
はじめましての大切さとどうしようもなさをふと噛みしめる、水曜日の夜。
ありがとうございます。ちょっと疲れた日にちょっといいビールを買おうと思います。