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「切ない」という感情について

就職する前に、お母さんが東京に来たことがあった。

上京するわたしの引越しの準備のため、というのはもちろんあったのだけれど、お母さんは「自分の大学生活の思い出の地を巡る」ためにやってきた。

お母さんが学生時代を過ごした街。お母さんが看護師として働いた街。お母さんとお父さんが、恋をした街。

どうやら広尾がその思い出の街らしかった。広尾にいるお母さんは、本当に若返ったように見えて、きらきらしていて、思い出がお母さんを本当にその時まで連れて行っているような、そんな感覚に陥った。

わたしも京都へ帰った時、いつかそんな気持ちになる日が来るのかなあと涙が出そうになったことを、今でも覚えている。



この時に漠然と感じた「切なさ」をふと思い出して、また、秋の夜に感じるそれを感じて、こういう切なさってどういう時に感じるのかなあ、と考えていた時に、吉田篤弘さんの新著エッセイ『京都で考えた』を読んだ(ものすごく、よかった)。


「忘れるというのは、自分の頭の中で起きていることですが、なくなってしまうのは、自分の外側で起きていることです」

「だから、忘れてしまったことは自分しだいで取り戻せるけれど、なくなってしまったものは、たぶんもう取り戻せません」


この一節を読んだとき、「自分ではコントロールできないもの」が、きっと切なさにつながるんじゃないだろうか、と漠然と思った。

思い出にしたくないことが思い出になってしまう瞬間や、夏の終わりや春の始まりなどの季節の境目、変わってしまう自分や他の誰かの気持ち、昔の恋人からの結婚報告、その他どうしようもないことエトセトラ。

切なさに共通するものとは、ぜんぶ「自分ではコントロールできないもの」じゃないか、と気づいたのである。




「何も変わってない。変わったけど、変わってない。」

お母さんがその時にふいに言った、一番印象に残ったことば。このことばは、私の胸の中にずっと残っている。

その時から、物事において変わるものと変わらないものの違いってなんだろう、とずっと考えている。変わらないものが大切で、変わってしまうものは大切ではないのだろうか。何が変わるもので、何が変わらないものなのか。変わるべきものは何で、変わらないでいいものは、何か。

雑誌は編集長がいつか変わる。残るべきものは、センスなのか、コンセプトなのか、雰囲気なのか、名前なのか。何かの会社も団体も、いつかは継承するべき時がくる。その時大切にするべきなのは、創始者の意思なのか、その組織が継続することなのか、これからのニーズに答え柔軟に対応していくことなのか。人も、毎日変わっている。何が残れば「自分らしさ」が残るのか、顔なのか、性格なのか、ヒト付き合いなのか。


「変わる」ということは、もう少しゆっくり考えてみなければわからなさそうだけれど、秋の台風一過のこんな日に「切なさ」について考えてみた月曜日の夜。おでんを作りました。


ありがとうございます。ちょっと疲れた日にちょっといいビールを買おうと思います。