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成りたかった幻影としてのバブル時代とブルゾンちえみ

先日、海外から来た人が「ブルゾンちえみ」がすごい面白かったという話をしていて、そうか、ブルゾンちえみは面白いのか、と奇妙な感慨を抱いた。

バブル時代の日本のことなんて何にも分からないけど、ブルゾンちえみは面白いらしかった。テレビを見ながらゲラゲラ笑ったといった。

僕もたぶん、ブルゾンちえみは嫌いじゃない。その芸で好きなのは「男なんて世界に○○千人居る」みたいな話をする二人男を侍らしながらモデル歩きをするという芸である。

盗作疑惑もささやかれているけれど、盗作だったかどうだったかという事よりも、こんな言葉を言う人はたしかバブル時代には殆どいなかっただろうと思う。

ブルゾンちえみの芸風は、いわゆる「キャリア女子」をネタにする系譜の末端にある。こうしたキャリア女子的な消費のされかたの善悪にはそれなりに深刻なバックヤードがあるのだけれど、八十年代から九十年代にかけて働く女子たちが結婚というバイアウトを目指しながら、優雅に遊ぶ日々を演出する広告が山のように流れていた。八十年代末の雑誌を見てみれば、その優雅さの一端を伺うことができる。

バブル時代はぼくらにとって幻影の時代だった。

バブルは誰もが優雅な暮らしができたわけではないけれど、もしバブルが続いていたらどんなに幸せだったろう、と昔に「イケイケ」だった人はいう。

思い出すのは「バブルへGO! タイムマシンはドラム式」という映画、もとは演劇だった作品だ。

広末涼子若いなぁ。

バブルへGO! はバブル時代に戻ってバブル崩壊の原因になった法律の制定を邪魔するみたいな話だったと思う。或人は「シュタインズ・ゲートの元ネタじゃないか」とかいっていたけれど、そうじゃないだろう。

まったく見るに値しないクソ映画の一本だが、印象的なラストシーンは「小泉純一郎となった阿部寛がパレードする」という地獄の様相で、はじめてみたときは「なんじゃこりゃ」としか思わなかったけれど、今みればいろいろ考えさせられるシーンだったなぁと思わなくもない。

何をって? さあ何をでしょうかね。

バブルのことでもうひとつ思い出した。むかしディスコで踊っていた女の人に「俺、構造と力読んでるだぜ」といってナンパしてきた男がいたという話だ。浅田彰『構造と力』は、太平楽な学問が許されていた時代の産物で、読みやすくて面白かった。面白い学術書がこの時代にはたくさんあったのだ。学者も自分で何を言ってるかよくわからないまま思考を連ねる雑誌があって、小難しい言葉を整理されないまま話している時代があった。

エピステーメーという雑誌もあった。

STUDIO VOICEも元気だった。

いまはもうみんなない。みんな死んでしまった。誰か彼もが、ツイッターを眺めて怒りを蓄えるだけの世界になってしまった。何もかもが、愚かになってしまったのだった。

ブルゾンちえみを笑っているとき、それはバブルのころに「ありがち」だった男を選べる女の偶像を笑っているんだろう。いまその頃の女はみんなどこにいってしまったんだろう。家庭の中で悲鳴をあげているのだろうか。職場で部下を怒鳴り散らしているのだろうか。それとも趣味と慈愛によって世界平和へ尽力しているのだろうか。わからない。


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