見出し画像

きれいな女の子の写真

最近は名も知らぬ女子のインスタグラムを見ることに余暇を費やしている。

難しい本を読む気力がないし、かわいい女子のかわいいエッセイを読む気力もない。なにより2017年、ネットが登場してからエッセイはつまんなくなってしまった。あと、本を読むと結局本を書くことができなかった(そのチャンスがなかった)自分が哀れに思えてしまうのだ。

インスタグラムを覗いて適当にかわいい感じの子をフォローすると、女子が大量に自撮写真をあげている。自撮の多くは棒を使って適切な距離をはかったもので、友人と一緒に写っていることもあれば、そうではないこともある。タレントもいれば、素人の子もいる。

インスタグラムでの写り方には二つのパターンがある。それは「悲劇的か」それとも「喜劇的か」だ。ポーズや容姿の問題ではない。写真のエフェクトの問題でもない。

でも、この二つの区別は僕の中ではとても大きな違いだ、と思う。人間そりゃ悲しいこともあれば嬉しいこともあるだろう。でも、悲しみが似合う人と喜びが似合う人はそれぞれいるような気はする。

たとえば、憂鬱そうな表情でほおづえをつきながら窓の外を見上げている子がいる。

憂鬱そうな表情で頬杖をついて窓の外を見上げる、という光景は、誰もがクラスで見たことがある風景だろうと思う。窓際から見る外は、檻の外のように自由である。だから窓を越えて外にでてしまったらそれはもう、その後にどれほど悲劇的なことが起ころうとも、喜劇でしかない。

あるいは、手を組んで眉根を寄せて目をとじうつむいている女の子がいる。

それはたぶん何かを祈っている。何を祈っているのかはわからないけれど、「祈り」が必要な時、その祈りに答えられない見ているだけの僕らは、祈りが通じることを願う。その願いを誘発するのが悲劇だ。

僕は個人的な趣味として「悲劇性」が似合う子のほうが好きだ。憂鬱そうな人、悲しみをたたえた人、祈りを向ける人・・・・・・。やけばちにならず、忍耐をもち、行動を起こし、絶望に負けない。

そんな人はでもいないし、生きてもいけないだろうと思う。だからせめて、憂鬱さや祈りの表象だけが、インスタグラムの「自撮テク」として残っているのだ。彼女たちのささやかな自慢や矜持は、諦念と苦いくるしみの残滓でもある。

ここまで書いてみて、「悲劇性」という言葉は全然的確ではないなぁと思った。

シリアスな表情がかわいく見えるってそれだけの話でしかない。写ってる女子がほんものの悲しみを抱えてキメ顔を作ってる保証はないし、昨日父親が亡くなった苦しみを抱えながら友だちと笑いあって写真を撮っていた可能性だってある。

想像力の問題だ。

話はかわる。

むかし、スペイン人の映画監督と、ドイツ人の研究者と、中国人の学生に「日本のオタクはかわいい女の子、庇護されるべき弱い子が好きですよね」と言われたことがある。まあそうなのかもしれない。庇護されるべき弱い子(子どもとか)がカワイイと思うのは全世界共通では? と聞いたら、ドイツと中国は同意してくれた(スペインの方には聞けなかった)。

でも、むしろ話はもう少し複雑なのではないかと思うようになった。つまり、庇護されるべき女子が庇護されることもなく自分で運命を切り開かなくてはならない悲劇性に人は心奪われるのではないだろうか、と思うようになったのだ。

『まどマギ』をみててそう思った。(『沙耶の唄』の頃から思っていた)。自己決定という名の強制。強制された運命を飲み込む苦みと苦しみ。命を賭してなお届かない高み。

ただ、それは特別で特殊な女子だけの話だと思っていた。でもインスタを見ていると、女子はみんな運命を飲み込む苦みを知ってるのかな、って思って、今日もインスタ観察おじさんとして仕事を探しながらインスタみてる

仕事ください。それがないならサポートください(といっていままで書いたことを大ナシにするおじさんもやる)。

昔のことや未来のことを考えるための、書籍代や、旅行費や、おいしい料理を食べたり、いろんなネタを探すための足代になります。何もお返しできませんが、ドッカンと支援くだされば幸いです。