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人を「1」とカウント、するな。

最近、ウェブマーケティングの勉強をしている。

無料のウェブサイトをみたり講座を聴いたり、空いた時間をちょこちょこ使っているだけなのだけれど、勉強になることは少なくない。

少なくないけれど、勉強になることも多くはない。むしろ強烈な違和感や絶望感を感じる内容を教えられる事も多かった。

その中で一番きつかったのは「多数」に繋がることへの圧倒的で絶対的な盲信だ。絶対善として多数を崇めることがウェブマーケティングの「マーケティング」のコアなのだ。

たとえば、お店をやっている人がいて、売り上げを伸ばそうと思ったとする。そのためにネットを上手に活用しましょう。そういう活用の仕方についてマーケティングは実にいろいろな実践的方策を教えてくれる。

でも、はたして「多すぎる」ことはいいことなの?

今日のエントリで、旭川動物園の園長のインタビューが話題になった。

「年間300万人の大ブームは本当に辛かった」旭山動物園の園長がいま語る真実(取材:徳谷柿次郎) - Yorimichi AIRDO|旅のよりみちをお手伝い http://yorimichi.airdo.jp/asahiyama_kakijiro

ここで語られている「300万人」を相手にする行動展示は不可能という原理的な話は、町工場で作られる商品がブームによって事業拡大しても、すぐに飽きられて投資が回収できないという一過性投資と同じような現象が想定される。企業活動と動物園が違うのは、園長が述べているように、動物園には「命の大切さ」を伝えるという使命があって、300万人というオーバーフローによって「それが果たせなくなってしまっていた」。つまり「お金以外のミッション」があるということだ。

会社には多かれ少なかれ、本音であれ建前であれ「ミッション」がある。あってしかるべきだ。僕はもう数え切れないぐらい御社の「ミッション」を聞いてきたけれど(聞かなかったのは雲仕事だけだ)、それがあるかないか、本気かどうかはそれなりに――重たいそれなり――重要なことだ。

「多数」と「とにかく多数」は根本的に異なる。多くの人、という「多さ」にはある種のサイズがあり、そのサイズの大小はあるにせよ適切さを欠いた大きさは臨まれない。しかしウェブは違う。とにかく大多数へ。とにかくたくさんへ。そのなかのカモをさがせ。1000万の中には4000ぐらい金をはらってくれる人がいる・・・・・・はずだ。それがウェブマーケティングだよって。

僕は君の1じゃない、といいたくなるような、目を覆いたくなるような道徳観だった。キュレーションメディア(こんどはついに小学館もそれに手をだすそうだ)の愚かで調査不足な無数の虚偽は、こうした圧倒的な「多数という善」へとリーチするために磨き抜かれたテクニックで生み出されたのだった。それに荷担していた自分もいる。それを越えられない自分もいる。だけど、それを越えられなければ、ネットの向こうの人は、PV1の何かにすぎない。それこそ人工知能でかまわないような、文字通りのただの「1」だ

僕らは1ではない。重たい単位だ。まだ名付けられていない単位、絶対零度を超えて現れる重量を示す単位を生み出すような、そういう重たさで僕は君と付き合いたい。

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