のぞみ

 初めまして。友人がnoteなるものを通じて、小説を書いているというので、早速僕もやってみることにしました。小説などというものは、まったく書いたことはなく、読むのは好きで、物語を紡ぐことができるのは特殊な能力なのだと決めつけていたので、自分がこのような挑戦をする気分になっていることに、ちょっと驚いています。

 いざ何かを書くという段になって、さて、書きたいことはあるのだろうか、題材は何にしようかと考えていたところに、先述の友人から、「久しぶりに会った恩師が、余命宣告を受けているが現役でバリバリ働いている」と聞きました。僕の恩師も、ほんの数週間前にこの世を去りました。春は、この世とあの世がつながるのでしょうか。

 お二人はどちらも癌ですが、二人の対応は違っていて、友人の恩師は、自分が余命幾ばくも無いことを色んな人に伝えているようでした。かたや、僕の恩師は、一月ほど前にFacebookで連絡したときも、そのことはおくびにも出さずに、元気そうなお返事をされました。訃報を聞いたときには僕も驚いたし、周りのみんなも、誰も知らされていなくて驚いたと言っていました。

 僕だったらどうするだろう? きっと黙ってはいられないだろうなと思います。そして、与えられた時間をどのように使っていくだろう? そんなことをふと考えるようになりました。

 だから、というわけではないですが、死ぬ、ということについて考えたいな、と思うようになりました。もうなかなかいい歳でして、けれど、死ぬ、にはまだ少し時間が与えられている、多分。そんなときに、いままで自分のしてきたことや、出会ってきた人に、何を残すだろう、そしてこれから、何か新しいことができるだろうかと、考えてみたくなったのです。

 僕が卒業した中学校の同級生は、どういうわけだか若くして逝ってしまった子が多くて、つい先日も二人亡くなったと聞きました。早い子では10代で、他の中学校の人たちと比べたわけではないので分かりませんが、それでも、少なくない同級生が、若い旅立ちをしていきました。

 卒業以来、全然会ったこともないし、なんだったら中学生の時に話したことすらなかったのに、死んだ、と聞くと突然、身近な人に感じてしまうのは、僕が人でなしのせいなのか、それとも、人間とはそういう生き物なのか。

 健康診断でも毎年ちょっとずつ数値が悪くなっていて、酒をやめればいいのだろうけれど、やめられなくて、数年前にはずっと胃が痛くて、胃カメラを飲むまでは、本当に「死ぬかも」と思っていました。そのときに、生きていて初めて「死ぬ」という感覚が、近くなりました。

 「死」というものは、遠くにあるときにはとても恐ろしいものだけれど、それが近づいてくると、たとえば20代に感じていたような恐怖心はありませんでした。もっと近づいてきたら? あるいは、それを、他人から宣告されるという形で目の前に提示されたら?

 「椿」という小説にまとめてみようと思いました。私小説ではなく、完全なフィクションです。けれど、やっぱり自分の見たことや、聞いたことや感じたことが、様々な形で文章の中に入り込むでしょう。


 なんとなく始めてしまったので、この先何か書くことがあるのか、そもそも自分に続けていくだけの力があるのか、それは分かりません。ちょっとずつ不定期に、だらだら書いていきますので宜しくお願いします。

 エッセイの方は、もう少しハイペースで更新するのではないかと思います。どうぞよろしくお願いします。


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