【沢庵和尚から柳生宗矩への手紙その10:應無所住而生其心】


 應無所住而生其心。
 この言葉を読み下すと、おうむしょじゅうじゅうごしん(金剛般若経の一節)となります。
 
金剛般若経
「是故須菩提 
 諸菩薩摩訶薩応如是生浄心
 不應住色生心
 不應住声香味触法生心
 應無所住而生其心」
 
「是故に須菩提(しゅぼだい)よ、
 諸々の菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ)は應(まさ)にかくの如く清浄の心を生ずべし。
 まさに色に住して心を生ずべからず。
 まさに声香味触法に住して心を生ずべからず。
 まさに住する所無くして而も其の心を生ずべし」
 
 多くのことを行おうとするとき、しようと思う心が生じれば、その、する事に心がとどまってしまいます。従って、どこにもとどめることなく心を生じさせなければなりません。心が生じるべき所に生じなければ、手も動かず、動いたとしてもそこに心がとどまってしまいます。
 そうした事々を行いながらも、どこにも心がとどまらず仕事も滞らない人のことを、名人と呼ぶのです。
 
 この、とどまる心から執着心がおき、だから輪廻などという考え方も生まれ、(剣の道においては)とどまろうとする心が生と死の境目となるのです。
 色づいた紅葉を見て、紅葉を眺めながらも、その紅葉に心を奪われないようにしたいものです。
 
 慈圓(鎌倉時代の天台宗座主、愚管抄などを残した)の歌に、こうあります。
  柴の戸に匂はん花もさもあらばあれ ながめにけりな恨めしの世や
 
 花はただ無心に匂いを醸しだしているのに、わたしときてはその花に心を奪われて眺めている、そのように心をとどめてしまうことが恨めしいという意味です。
 何を見ても何を聞いても、その一箇所に心をとどめないことを至極のものとしなければなりません。
 
 敬の字とは、主一無適といって、一心不乱に心を一つにしてとらわれない事で、心を一箇所に定めて他に心を動かさず、後に刀を抜いて斬るときも斬る相手には心をとどめないことが肝要です。
 ことに、主君から君命を承るようなときこそ、敬の字を忘れてはなりません。
 
 仏法にも敬の字と同じ心持ちがあります。それは敬白の鐘と言って、鐘を三回ついてから手を合わせて啓白します。
 何よりも重要なのは仏に経を唱える敬白の心で、主一無適、一心不乱と、同じ意味です。しかし、仏法においては、敬の字の心は修行の至極の境地ではありません。我が心が奪われ、乱されないようにと心がける、修行の初期の段階でのことです。
 敬白の心がけの稽古を長年続けていくと、心をどこへ追いやっても、自由に心を動かして使うことができるようになります。この、應無所住とよばれる段階こそが、修行における至極の境地なのです。
 
 敬の字の心では、心をどこへも行かさぬように引き留めよう、心を動かすと乱れてしまうと思い込んで、ほんのちょっとの油断もなく心をきつく引き寄せておくようになります。しかしこれは、必要な間、心を散らさないようにするためのことです。常にこのような心がけでは、自由に心を動かせるとは言えません。
 
 たとえば、雀を捕まえてきて、猫の首に縄を結わえて雀を襲わせないようにしているような、自分の心をそのように不自由にしておいては、必要なときに心を動かして使うことができなくなります。
 猫をよくしつけておいて、雀が1羽飛んできても捕まえないようにすることこそが、(金剛般若経にある)應無所住而生其心という一文が意味していることなのです。
 
 自分の心を解き放ち、猫のように行きたい方へ心が動いても、心がそこへとどまらないように心を使うのです。
 貴殿の兵法にたとえて申し上げると、太刀を打つ手に心を止めず、一切の打つ手のことを忘れながら、刀を打ち込んで人を斬る、斬る人に心をとどめない、人も空、我も空、打つ手も打太刀も空であると心得て、空に心を取られないようにしなさい。
 
 鎌倉の無学禅師(無学祖元、宋の禅僧で臨済宗に大きな影響を与えた)が、大唐の乱(正しくは1275年に元が南宋へ侵攻したとき)で捕らえられて切られようとしたとき、電光影裏斬春風という偈(韻文)を詠んだところ、相手は太刀を捨ててどこかへ去ってしまったといいます。
 無学禅師の偈の意味は、太刀をひらりと振り上げるのは、稲妻の雷光がピカリと輝くほどの瞬時であり、何の心も何の念もそこにはない。
 斬りかかる刀にも心はなく、斬りかかる人にも心はなく、斬られる自分にも心はない、斬る人も空、太刀も空、斬られる自分も稲妻がピカリと光る間に、まるで春の空を吹く風をきるようなもの、一切とらわれない心なのだと。
 風を切ったことすら、太刀には何も感じていないのだと、そういう、心を忘れきった境地に至って、全てのことに対するのが達人なのです。

 舞を舞えば、手に扇を持ち足を踏む、その手足を何とかうまくやろう、能を上手に舞おうと思い詰め、そのことを忘れきらなければ、舞の達人とは言えないでしょう。
 舞う手足に心をとらわれてしまえば、その舞も、聴衆には面白いとは感じられません。ことごとくすべての事柄において、心を捨てきらずに行う所作は、みな良くないものです。
 
 
 
 
應無所住而生其心
 此文字を読み候へば、をうむしょじようじやうごしんと読み候。
 萬の業をするに、せうと思ふ心が生ずれば、其する事に心が止るなり。然る間止る所なくして心を生ずべしとなり。心の生ずる所に生ぜざれば手も行かず、行けばそこに止る心を生じて、其事をしながら止る事なきを、諸道の名人と申すなり。
 此止る心から執着の心起り、輪廻も是れより起り、此止る心生死のきづなと成り申し候。花紅葉を見て花紅葉を見る心は生じながら、其所に止らぬを詮と致し候。
 慈圓の歌に、
  柴の戸に匂はん花もさもあらばあれ ながめにけりな恨めしの世や
 花は無心に匂ひぬるを、我は心を花にとどめてながめけるよと、身の是れにそみたる心が恨めしと也。見るとも聞くとも、一所に心を止めぬを至極とする事にて候。
 敬の字をば主一無適と註を致し候て、心を一所に定めて餘処へ心をやらず、後に抜いて切るとも切る方へ心をやらぬが肝要の事にて候。殊に主君抔に御意を承る事、敬の字の心眼たるべし。
 佛法にも敬の字の心有り、敬白の鐘とて、鐘を三つ鳴して手を合せ敬白す。先づ佛を唱へ上げる此敬白の心、主一無適、一心不乱、同義にて候。然れども佛法にては、敬の字の心は至極の所にては無く候。我心をとられ乱さぬやうにとて習ひ入る修行稽古の法にて候。
 此稽古年月つもりぬれば、心を何方へ追放しやりても、自由なる位に行くにて候。右の應無所住の位は、向上至極の位にて候。
 敬の字の心は、心の餘所へ行くを引留めて遣るまい、遣れば乱るると思ひて、率度も油断なく、心を引きつめて置く位にて候。是は當座心を散らさぬ一旦の事なり。常に如レ是ありては自由なる義なり。
 たとへば雀の子を捕へられ候て、猫の縄を常に引きつめておいて、放さぬ位にて、我心を猫をつれたるやうにして不自由にしては、用が心のままに成る間敷候。猫によく仕付をして置いて、縄を追放して行度き方へ遣り候て、雀と一つ、居ても捕へぬやうにするが、應無所住而生其心の文の心にて候。
 我心を放捨て猫のやうに打捨て、行度き方へ行きても、心の止らぬやうに心を用ひ候。貴殿の兵法に當て申し候はば、太刀を打つ手に心を止めず、一切打つ手を忘れて打つて人を切れ、人に心を置くな、人も空、我も空、打つ手も打つ太刀も空と心得、空に心を取られまいぞ。
 鎌倉の無学禅師、大唐の乱に捕へられて切らるる時に、電光影裏斬2春風1といふ偈を作りたれば、太刀をば捨てて走りたると也。無学の心は、太刀をひらりと振上げたるは、稲妻の如く電光のぴかりとする間、何の心も何の念もないぞ。打つ刀も心にはなし、切る人も心はなし、切らるる我も心はなし、切る人も空、太刀も空、打たるる我も稲妻のぴかりとする内に、春の空を吹く風を切る如くなり、一切止らぬ心なり。風を切ったのは、太刀に覚えもあるまいぞ、かやうに心を忘れ切って、萬の事をするが上手の位なり。
 舞を舞へば、手に扇を取り足を踏む、其手足をよくせむ、舞を能く舞はむと思ひて、忘れきらねば、上手とは申されず候。未だ手足に心止らば、業は皆面白かるまじ。悉皆心を捨てきらずしてする所作は皆悪敷候。