妊娠中の不安

 市販の妊娠検査薬で陽性反応が出たので、産婦人科へ行くことにしました。生まれて初めての産婦人科でした。
 そこは産婦人科です。いま会ったばかりの人(先生)に、おまたを見せるということは、頭ではわかっていても受け入れがたい事実でした。噂通りの、座ると背もたれが下がると同時に足が広がる椅子は、ネガティブなイメージしかありませんでした。いままでの人生で、妊娠を希望することより妊娠しないことを熱望してきたからです。お腹の辺りで引かれたオフホワイトのカーテンを見つめながら、この状態も慣れていくのだろうかとぼんやりと考えていました。
 膣に器具を挿入され、妊娠しているかの確認と、正常な妊娠であるかを調べているというのはわかっていました。しかし、ふっと疑問が出てきてしまうのです。そんな大事なところに? と。その度に、お医者さんは毎日していること、これは日常! と自分に言い聞かせていました。

 診察が終わり、問題なく妊娠していることを告げられました。子宮外妊娠ではないと。出産するかしないかと聞かれると、迷いはありませんでした。付き添いで来ていたつーさんとふたりで出産を希望していることを伝えました。
 しかしその後、ショックなことを先生に言われました。この辺りにあった産婦人科がなくなっていき、この病院に患者が集中しているとのこと。それにより足切りをせざるを得ない状況になっているということでした。その足切りの対象にしているのが、高齢出産の人だと。
「高齢出産ですよね? それに初産ですよね?」
 そう先生に言われると、私は高齢出産であることが恥ずかしくなりました。この病院にいるのは若い妊婦さんしかいないのかと。しかしよく考えれば、いまや三人に一人が高齢出産と言われているのですから、恥ずかしいなんてことはないのです。むしろそれだけ患者がいるのであれば、少ない医師に問題があるのです。
 話を聞くと、診察までは責任をもって診させてもらうが、出産は別な病院で、とのことでした。みなさん里帰り出産される方も多いですからね、と。私はまたショックなことを言われました。里帰りしたくともそれが出来ないのですから。
 私は両親を亡くし里帰りは出来ないことを先生に伝えました。先生も看護師さんも産後は大変だから、誰かに助けてもらった方がいいと勧めてきました。「兄弟は?」と聞かれ、実家に住んでいる姉に相談してみようかと思いました。

 
 ところで、いま現在の私は、ふたりの子供を産みました。上の子を産んで六年、いまさらですが気付いたことがあります。妊娠したことを自分の親に言えないことが、後々自尊心の欠如に繋がっていったようです。お腹の中の子は、守るべき我が子ですが、その母である私を守ってくれる親がいないのです。私が生まれた時の様子や、赤ちゃんだった頃はどんなだったのかをちゃんと聞きたかったです。この時期に聞くことが出来たら、幸福感を得られたのではないでしょうか。育ててくれた両親がいることだけでも贅沢なことなのでしょうか。そういう考え方もありますが。
 育児というのは、自分の親の影を追うようなものです。我が子を育てながら、母や父がしてくれていたことを思い出していくものです。私はその都度、亡くした両親が浮かんでくるのです。育児をしていて悲しくなることも多かったです。
 また、のちに障害をもっている兄のことも、これから先の育児に大きく影響をしてくるのですが、実家とよべる場所やそこにいる人のことで、通らなければいけない第一歩が、ここ、産後はどうするかにあったのです。

 私は妊娠したことに喜びを感じることもなく、その根源にあったものがなんであるかを考える余裕もありませんでした。

 妊娠いていることが不安でたまらず、気晴らしにと本屋で某マタニティ雑誌を買ってみました。そこには妊婦さんのお腹が一か月ごとに一列に並んでいました。数人のサンプルがあり、お腹の大きさも個人差があるのだと知りました。しかし本当にこうなっていくのかと思うとますます不安は募るばかりです。重みのありそうな大きなお腹に私もなっていくのかと。気晴らしで本屋に入って、マタニティ雑誌を買い、また悶々としていくのでした。頭の中は妊娠や出産のことでいっぱいで、それ以外のことに興味を持てなかったのです。

 出産に向けてどんな風に気持ちが変わっていったかを話す前に、バイトをクビになった話をさせてください。あれは明らかにマタハラでしたから。言っておきたいのです。

『マタハラ』という言葉が世に出てきたのは、その一年後でした。もう少し後であれば、こんな目にも合わなかったかもしれません。私の運のなさでしょうか。
 でもいまは、こうして言えることが楽しいです。

 私は籍を入れる少し前から書店で働くことになりました。妊娠をするなら早い方がいいとは思っていましたが、いつになるかわからなかったですから。とりあえず家の近くで働き始めました。
初めてつーさんと同じ苗字で呼ばれ、嬉しいような恥ずかしいような、そんなバイトの始まりでした。
 新しい人間関係や職場の雰囲気が新鮮で楽しいこともありました。コミック売り場で長く働いていた男性が、レジ裏にある棚から綿棒を取り出し、耳をほじっているのを目撃したり。私用の棚なのかな? と、ちょうとしたミステリーのように好奇心を持ってみたり。また午前中のお客さんとしておじさんが多いことを知りました。リタイアして散歩がてらの本屋なのでしょうか。そして新聞の下にある書籍の広告を持って問い合わせに来られる方が多いのには驚きました。
 そんな風に働いている人やお店の雰囲気に慣れ始めた頃でした。


 こんなにも早いとは思っていませんでしたが妊娠をしました。安定期に入る前でどうなるかは不安でした。もしものことを考えるとまだ誰にも言わない方がいいのか迷いましたが、働かせてもらっているのですから店長だけにはと思い、すぐに伝えてることにしました。
 それからしばらくはいつも通り働いていたのですが、急に日数の減ったシフトを渡され、どうしてかを聞いてみようと思っていました。

 そんな折、店長から電話がかかってきました。そしてこう言ったのです。
「妊娠していると気を使うから辞めて欲しい」と。
 あまりに一方的で、耳を疑いました。理由として本来なら朝、新刊の雑誌を運ぶ仕事をしてもらいたいと。そう言っていましたが、妊娠する以前もしていなかったのです。そしてもっと驚いたのは、
「いまから事務的な仕事なら別な所で雇ってもらえるんじゃないですか?」
 店長が、そう言ったのです。私はあまりにも非常識過ぎて、鼻で笑ってしまいました。
「他で雇ってもらえると思っているんですか? 妊婦ですよ」
「はー、そうかね」
 と、脳のある人とは思えない、力ない答えが返ってきました。
 普通の感覚がある人であれば、辞めて欲しいと思っていても、まず体調はどうなのかを聞き、それからどの位まで働けそうかを相談するはずです。経済的なこともあるわけですから。

 こう話していると、思い出してイライラしてきました。この書店の名前を伏せているのもバカバカしくないですか? 店長の名前くらいだしましょうか? 

 ま、いまのご時世、書店は厳しいですけれど。もう潰れるのも時間の問題かもしれませんね。
蕨のS書店ですけど。

 え? もう潰れていましたか(笑)それなら遠慮はいりませんね。


 妊婦を理由に解雇ということが、どれだけ暴力的なことかを知らないのでしょう。

 冗談ではなく、この後色々なことが重なり、私は流産してもおかしくない状態になっていました。いま考えると本当に恐ろしいです。

 妊婦の時は出来るだけ普段通りにしていたくて、これも出来ると思っていた節があり、身体の変化にもっと慎重になるべきでした。

 店長からの電話を切って間もなく、実家で二世帯暮らしをしていた姉から電話がありました。姉は泣いていました。そして母が大事にしていたスタンダードプードルのアドーニスをひとりで逝かせてしまったと。アドーニスことアドは大型犬で犬種の性格なのか家族以外にあまり懐くことはありませんでした。母が亡くなってからは体調も悪くなり、姉も大変だったと思います。

 アドや母との思い出が蘇り、姉と一緒に泣いていました。
 この数時間、感情は大きく二度揺さぶられていました。

 そこへ夫が帰ってきて、バイト店長の私への態度が気に入らず、怒りが収まらずにその興奮はぶつかってきました。もちろん夫として、妻を守りたい気持ちが大きかったのもわかります。しかし妊婦というのは、いつもより情緒不安定であることを知っていて欲しかったです。

 その日、私は神経が高ぶってしまい寝られませんでした。身体にもストレスがかかっていたのか、持病の喘息も出ていました。そして下腹部に生理痛のような熱い痛みを感じていました。

 朝、夫が会社に行った後、体調が悪かったので悔しいですが、バイトを休むことにしました。バイトを休むと電話した時の嫌な気持ちはいまでも覚えています。

 さすがに午前中はゆっくり寝るつもりでした。しかし、夫から絶えず連絡がありました。雇用均等室に電話したと。私に電話をしてきて、そこで言われたことを話だしました。違法だということしか出来ないということを。もしまだ働く気があれば、国からその企業に対して話がいくとのことでした。雇用均等室との電話を切り、行き場をなくした夫の怒りはネットを駆け巡っていたようです。そして見つけ出したのは、解雇手当がもらえるということでした。本来なら、解雇するのであれば一か月前に言うべきであるのに、私の場合は二週間前だったのです。そしてまた電話があり、解雇通知をもらってこいと。私はもういい加減限界を感じ、これ以上神経を逆なでしないで欲しい、寝かせて、と電話を切りました。

 いい気はしませんでしたが、店長が指定してきた日までは働くことにしました。それ以降は脳なし店長の顔を見たくもなかったですし、ストレスも溜まるだけだと辞めることに決めたのです。後日、解雇通知のことを店長に伝えたが、うやむやにされました。

 

 妊娠してからというもの、他人からやさしくされるということはありませんでした。というより、面倒な存在になったようです。妊娠五か月、マタニティーマークを付けていても電車やバスで席を譲られることはありませんでしたし、実際のところそんなのは都市伝説なのだろうと思っていましたから。私だって、妊娠する前は妊婦さんに気付いて席を譲るなどしたことがありませんでしたし。

 ジムやバイトを取り上げられ、社会から締め出された私は、この先まだ長い妊婦生活をどのように過ごせばいいのか不安が募っていくばかりでした。


 そんな中、まだ安産祈願をしていないことに気付き、ネットで近場のお参り出来る場所を探してみました。するといつも足を運んでいた上野公園内にある清水観音堂が子育て祈願・安産祈願で有名だということを知りました。とても嬉しくなりました。お寺というのにも惹かれますし、わざわざ行くというのではなく上野ならいくらでも行きたい所はあるのですから。

 楽しみにしいた当日、清水観音堂に着くとまず安産祈願のお守りを選び授かりました。すると本堂の中でお参りもさせてもらえることを教えていただきました。是非お参りをと思い、案内をしてもらうと、通された場所には奉納されている人形がたくさん置かれていました。
私と夫は交互に一人ずつ手を合わせました。
 その時、やっとここまでこられたのだと実感が湧いてきたのです。いま、安産祈願をしているのだと。母が亡くなって約一年半。亡くなってすぐの頃は鬱状態にあり、友人との約束も前日まで行くか断るかも決められない程に判断力が鈍っていました。思い出します、その行くかどうするか迷っていた日、私は映画ヒミズを観た帰りで、劇中にも出ていた街の北千住駅を目指して歩いていました。判断力が落ちてふわふわしていたあの私に、こんな日がくると想像出来たでしょうか。
 いまの夫であるつーさんが「僕じゃあもう助けられないから明日ならちゃんに会ってきな」と言っていたあの風景が昨日のようにも遠い昔のようにも思えました。結局翌日は、ならちゃんと森美術館に行きました。ですが、だからと言って、急に元気になったかと言えばそうではなく、時間はかかりました。

 私は人の死と生をこんなにも間近で体験しているのだと、つーさんが手を合わせている姿を見て思っていました。

 この頃は、週末の予定を立てなければ、それ以外なにもありませんでした。あるとしても健診だけです。普段はひとりで健診を受けていました。週末は別の予定を立てたかったというのもありますが、混んでいる日にわざわざ行かなくともと。しかし、そろそろつーさんと一緒に行くのもいいと考えていました。私が手渡すエコー写真だけではなく。エコーを受けている時の映像や心音も体験して欲しかったのです。心の準備的にも。
 日曜日の産婦人科はとても混んでいて、お会計を済ますまで二時間かかりました。それに私たちのように付き添いの人が多く、待合室は空いている席もなく、壁際に立っている人もいる程でした。
 待っている時間が長かったので、周りの人たちを見ていました。目に留まったのは、壁際に立っている人のひとり、ジャージ姿で前髪をちょんまげに結わいているという、いかにも近所からきました風貌のおそらく十代の女の子がいました。その子が呼ばれ、診察室に入って行くと、先生の声が外に漏れる大きさで聞こえてきました。なにを言っているかはわかりませんでしたが、怒っているようでした。しばらくして女の子はうつむき加減で鼻を赤くして出てきました。そして先程までいた場所に戻ると、立ったまま泣いていました。憶測ではありますが、その女の子はここへ来るのが初めてではない気がしました。防衛本能が低そうにも捉えられる服装からだけではなく、ふらっとひとりで来られる場所ではないはずですから。妊娠をしていたら、病院へ来る前に検査薬でわかっていたはずです。相手がこの場にいないことを考えると、泣いていてもおかしくない。どれだけ心細く不安だったことでしょう。間もなくその子が受付に呼ばれると『手術の日は……』と受付の人の声が聞こえてきました。

 その子が帰った後、私はなんとも嫌な気分になっていました。相手がいての妊娠であるのに、ひとりだけが泣いているなんて。


 それからしばらくして、三人掛けの椅子に座っている女性に目を向けると、薄っすらですが泣いているのがわかりました。女性はおそらく三十過ぎ。どちらだったのだろかと想像すると、やはりダメだったのだという気がしました。鞄からタオルハンカチを取り出し目頭をおさえて悲しそうに頷いていました。その頷きは仕方ないと自分を納得させているかのようでした。

 私もその女性の様になっていてもおかしくなかったのです。そして、あのジャージ姿の女の子のようなことにも。

 私は望んで妊娠し、相手は結婚した相手であるということが、どれだけ恵まれているのかに気付きました。もしかしたらこんなに幸せなことはないのかもしれません。

 それから一週間後だったでしょうか。谷中にあるアクセサリー店へ行きました。そのお店のアクセサリーはもちろん、店主が大好きなのです。色々と話をしてくれますし、私の母よりはうんと若いですが、それでも年上の方で。あまり他にはいない大切な存在だったのです。その店主に、妊娠の報告をしに行きました。
 店主は嬉しそうに話しを聞いてくれました。そして色々話もしてくれました。私は妊娠中、年上の方の出産育児の話に癒されたものです。もちろん母を求めている部分もあったでしょう。けれどそれだけではなく、話してくれる方の我が子に対する愛情を感じ取れたからです。そこに私への応援も入っていて、とても温かい気持ちになっていました。
 店主は言っていました。「自分の子はかわいいものよ」と。その言葉がとても心に残りました。その日初めてこのお腹が愛おしく思えたのです。

 妊娠出産に不安はあるものの、少しずつ気持ちが変化していきました。

 母が亡くなる少し前、「死ぬのも大変だ」と言っていました。死に向かって受け入れていく辛さや苦痛からは逃れられず当然のことですが、重たい言葉でした。
 しかし、産むのも大変でした。産んでからの壮絶な日々を考えるとなおのことです。産婦人科で通った出産前教室で、先生が言っていました。妊娠中は、これから年を取って思い通りにいかなくなっていく身体の疑似体験が出来るのだと。私は身体が不自由になったことはなく、初めてでしたから本当にそう思いました。それに出産ということだけを考えてしまうと、身体にとっていいことなどありませんでしたから。出産で死んでしまうこともありますし。
 どんなに死ぬほどの体験をしたところで、みんないつかは死んでしまいます。死ぬ前に、病気や事故以外のことで身体の苦しみ、死ぬくらいの痛みを経験しておくのも悪くない。それは、出産でしか出来ないことですから。そう思えるようになりました。
 また産めない人の苦しみは計り知れず、その苦しみを考えたら乗り切れるはずで、乗り切らなくては失礼なのだと。

 そうしてやっと出産に前向きになりました。


 ちなみにですが、私はアンドロイド希望です。アンドロイドになって、疲れ知らずで孫の世話をするのが夢ですから。ならせてください、アンドロイドに。死なない私でも、死ぬほどの痛みを知っておけてよかったと言いたいですから。

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