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【日記】旅をしながら働くワーケーションという生き方

あちこち旅しながら働く「ワーケーション」という言葉が世に浸透し始めてきたのは昨年のことだろうか。

"ワーケーションとは、「ワーク」と「バケーション」を組み合わせた造語で、観光地やリゾート地でテレワークを活用しながら、働きながら休暇をとる過ごし方。在宅勤務やレンタルオフィスでのテレワークとは区別される。働き方改革と新型コロナウイルス感染症の流行に伴う「新しい日常」の奨励の一環として位置づけられる。 "(Wikipediaより引用)

たまたまYoutubeでアドレスホッパーの特集を視聴したことがある。
京都のIT企業に勤めていた男性が高収入の仕事を辞め、現在はホテルやホステルを利用して世界中を旅しながら自由に働いている様子だった。
その身軽さ、フットワークの軽さに驚くとともに、一度でもバックパッカー旅行をしたことのある人であるならばきっと誰もが憧れる働き方だと思う。
少なくとも私はそのように感じた。

ただし住所不定というのは何かと信用度に欠ける。
日本ではまだまだ住所のない人はホームレスという言葉で差別されたり、いろいろな審査に通らなかったりする。
この方は事業を興しているため私書箱的な住所はあるが、普通の人はなかなか難しいだろう。

それに家がないというのは安住できる場所がないともいえる。
安心して寛げる空間、誰にも邪魔されない空間。
住まいの醍醐味でもあるインテリアの工夫、家電へのこだわりなど、そういう楽しみを放棄することにもなる。

それを棄ててまでアドレスホッパーを続ける人は相当タフだと思う。
私ならきっと途中で疲れてしまうだろう。
旅は旅として期限が決まっているから楽しい。
終わりのない旅はもはや旅ではない。
非日常は日常になる。
刺激的で楽しいと思えるのは最初のうちで、その後はどんどんしんどくなるのではないかとも思う。

若さがあればトライアンドエラーも笑い話に変えられる。
むしろ挑戦してこその経験や得られるものは何にも代えがたい財産でもある。

歳を重ねると物が増える。
臆病になるし凝り固まった常識とやらに支配されて身動きが取れなくなったりする。
介護問題、子育て問題、仕事、家庭、とにかく忙しい。
何のために生きているのだろう。時々生きる意味とやらがわからなくなり、お金のために時間を切り売りするような生活になる。

私が20代の頃は、世の中のオジサン・オバサンと呼ばれる世代が悲惨だと感じていたものだ。
全然楽しそうじゃない。生きることが単なるルーティンと化して全然覇気がない。
きっとこの先面白くない人生が待っているのだろうと想像するだけで身震いがする。
そこで20代のうちにできることを全部してやろうと思って国内旅行、海外旅行、山登り、ヒッチハイク、原付旅行、ダイビング、お遍路など思いつくままに行動した。

行動してわかったことは世の中には好きなように生きている人がたくさんいるということだった。
私の生活範囲で出会う人なんてたかが知れている。
半径数キロメートルでいつも同じ人と話し、仕事をし、飲みに行く。
その生活も悪くない。悪くないのだけど、ちょっと退屈になる。
だから山に行き星を眺め、知らない人とビールを片手に山談義に華を咲かせ、辛い急登を攀じ登る。
アドレナリンが放出する感覚。
そして家に帰るとたちまち深い眠りにつく。
この日常と非日常の混在こそが生きていると思える瞬間だった。

40代になった今、守りに入ってしまった自分に愕然とする。
あんなに「生きることはネタであり旅をしながら一生刺激を受けていたい」と豪語していたのに、つまらない生活に安心し、つまらないテレビを観て、億劫になった気力体力をそのままに「若いっていいねぇ」とオバサンくさいことをいう。

本当につまらない。
子どもがいる家庭は壮絶に大変なのだろう。
私のつまらない時間を分けてあげたいくらいだ。

ライフスタイルが異なると、ライフイベントも当然異なる。
私には一生子ども関係の行事は訪れないし、子どもが巣立って寂しくて空の巣状態になることもない。
その先にある孫の誕生など言わずもがなだ。


本題からかなり逸れてしまったが、アドレスホッパーや特定の組織に縛られずに生きる人を素直にうらやましいと思う。
そういう働き方生き方が認められて自由に生きていく人を応援する。
人間は時間の切り売りで労働を提供するけれど、その得たお金を自分のために遣えているかは疑問である。
たいていは教育費、医療費、住居費、通信費、食費(これは必要経費か)で消えていく。
特に住居費に至っては東京という立地は高すぎる。

不動産業に携わっていた時に感じる初期費用の高さには業者の立場であっても閉口した。
敷金、礼金、仲介手数料、前家賃、鍵交換費、管理費、更新料、火災保険料。
これ以外にもいろいろな名目をつけて何とかぼったくろうとする悪質な業者は後を絶たない。
良心的な業者は仲介手数料を半額にするなど、極力借主に優しいサービスを展開する。
しかし業者も手数料を収入源にしているため、単純な問題ではない。オーナーからも手数料をいただくという選択肢しかない。

物件のオーナーも全員資産が有り余ってしょうがないといった地主ってわけではない。
最近では「サラリーマン大家さん」などという言葉もあるとおり、普通の人が不動産投資でオーナーになることは珍しくない。
そのような一般的な「小金持ち」オーナーを対象に仲介手数料をいただくのも気が引ける。
しかし貸主も借主もどちらも繋ぐのが不動産仲介業の仕事だとしたら、双方から均等にいただくのが筋だと思うし、宅建業法でも認められている行為なのだから、それが理想形なのではないかと思う。

東京の家賃は高いがそれ以外は地方と大差ない。もちろん車を所有するとなれば話は別だが。
じゃあ東京の家を手放してしまえばいいのではないか。
家無し生活といっても東京には無数にホテルはあるしネットカフェはあるし、インバウンド層向けに作られたたくさんのホステルやゲストハウスがある。

ビジネスホテルは1ヶ月単位で借りることのできるプランもある。
だから「今月は新橋を拠点に、来月は地方を転々と」というような生き方もできる。
光熱費もかからないし、掃除をする必要もない。
家事というのはとかく時間を要するものだ。
中には家事が大好きで仕方がないという人もいるかもしれないが、同じことをするルーティン作業を面白いと思える人をうらやましいと思う。
料理は変化があって楽しいかもしれないが、切る、煮込む、などの工程に時間がかかりすぎる。
後片付けも含めると結構なタイムロスである。

特にグルメでもない私にとっては献立を考え、わざわざスーパーに買い出しに行き、重い荷物を持って帰り、小分けにして保存したりする作業がとてつもなく面倒臭く感じる。
それでいて肉も魚も野菜もすぐに傷む。
要らないものを買って、消費する前に廃棄する時は悲しささえ覚える。
単純に買い物下手なだけなのだろうけど、こんな大変な作業を毎日こなさなければならない。

手作りこそ至高という主義の人には申し訳ないが、家事は極力省力化したいと思っている。
今でこそ普及して当たり前の存在になっているが、食洗器、乾燥機付き洗濯機、お掃除機能付きのエアコンに助かっている。


掃除も極力したくないので荷物を大幅に減らした。
フローリングの床が見えるようになり、すぐにクイックルワイパーで掃除する癖がついた。
今までは綿埃があれば「そろそろ掃除しなきゃな」という具合だったが、今はちょっとでも埃やごみが目に着くと、さっとクイックルワイパーで掃除するようにしている。
換気を心掛け清潔でハウスダストから解放されると、気持ちも晴れやかになるし、身体や肌や精神にもいい。

ホテルは衛生的だ。特に東京のホテルは素晴らしいと思う。
安い宿は衛生管理にお金をかけないが、それでも普通のビジネスホテルのベッドメイクといい整った部屋があんなに安く利用できるなんてお得だと思う。
綺麗な洗面所に洗い立てのタオル、寝具。リネン類も交換されており、とても清潔だ。

その部屋に1泊3000円から4000円で宿泊できるとしたら、1ヶ月10万円くらいか。
それを高いと感じるか、安いと感じるかは人それぞれだけど、東京の一般的な家賃相場を考えても私は安いと思う。
東京の一等地に例えワンルームであっても住むとなるとそのくらいの維持費(固定費)はかかるからだ。

だから家を持たないという選択肢があっていい。
ホリエモンは昔からホテル暮らしだ。
それはお金持ちだからできることじゃないか?と食ってかかる人もいるかもしれないが、決してそうではないと思う。
別に毎日ラグジュアリーホテルに宿泊しているわけでもないだろうし、その必要性も感じない。

何度か高級ホテルに宿泊したことがあるが広すぎる部屋に落ち着かなかったことがある。
眺めもいいしベッドも大きいしバスタブとシャワールームが別の空間になっていて、お姫様気分を味わうことはできるが、別に何泊もしたいというほどでもない。

それよりも機能的なデスク、狭すぎず広すぎない部屋、適度に放置してくれるスタッフ、枕元にコンセントがあったり読書灯があったりするベッドがあるほうが何倍もいい。

そういう意味ではちょっといいビジネスホテルくらいが私にはちょうどいいのだと思う。
昨年30泊どころか40泊くらい色々なホテルに滞在してわかったことだ。
広すぎる部屋というのはどことなく落ち着かない。特に空調の利きがいまいちだったりする。
部屋が狭いほうが当たり前のことだがすぐに暖まる。
温熱効率を考えると20平米くらいまでの部屋がちょうどいい。


いろんな暮らしがあっていいし、生き方も誰にも縛られずに自由に生きていいと思う。
不自由な暮らしを選択しているのは自分自身だ。
そうせざるを得ない特別な事情があるのであれば別だが、自らをルーティンという枠に縛り付け面白くもない人生を送ることに何の意味があるのだろうか。
住む場所を固定化しないというのはまさにその自由への第一歩じゃないかと考える。

私は特に転勤族で飽きっぽい性格なので、家を購入した後でも「一生ここに住むのは嫌だな、たまには別の場所で暮らしたいな」と思う。
東京のなかでも上野と赤坂が全く別の表情をしているように、少し離れると環境が変化して面白い。
そこに住む人の表情や商店街などをそぞろ歩くのもまた楽しい。
お客様みたいな立場で嫌だと思う人もいるかもしれないけれど、人生は一度きりなのだから、いろんな場所へ出かけ、滞在し、新たな発見があって人と触れ合い、活力につながるのであれば私はずっとお客様でいいと思う。

よくバックパッカー出身でゲストハウスのオーナーになりたいという人を見かけるが、それもいいと思う。
自分は一か所に身を置きながらもサービスを提供し、毎日違う旅人の話を聞くという生活。
それも悪くないけれど、私はきっと飽きるだろう。
それに品の悪いお客様やトラブルも尽きないだろう。
少しならやってみたいと思うけれど、夢描くほどのことでもないのかもしれない。

私は今、自宅ではないとある場所に滞在している。
まるで海外旅行に来ているみたいだ。
たまに帰宅する自宅の寛ぎや安心感も格別なのも知っている。

テレワークや在宅勤務、ワーケーションなどの多様な働き方が認められるようになりつつある現在、定位置に縛られず好きな場所で仕事をし、フットワーク生きていきたいと強く思うようになった。

価値観の多様性、こうあらなければならないという縛りを棄ててしまえばもっと一日一日が変化に富んだ楽しいものになるかもしれない。

いろんなことにチャレンジし、そこで感じたことをまた文章にして伝えていけたら本望である。

長文でしたが最後まで読んでいただいた方にお礼申し上げます。ありがとうございました。(終)


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