私という現象
私という区分、私という現象。
そもそもは宇宙がひとつの単位として個、つまり分離を用意した。私という個もまた、宇宙のなかのひとつの現象だ。
私は「わたし」という分離のひとつに過ぎない。私という区分そのものはおおきな意識、おおきな「わたし」のなかにあって輪郭をとるための枠なのだが。
そのなかで蠢く感情の諸々もまた宇宙に流れる諸活動が相似形をなして私という次元で起きているのだとしたら。
陰と陽、重さと軽さ、引力と斥力、個体化と気体化…
ネガティブな感情に付随する重さを感じるとは、言い換えれば心的次元において只今の私が重力活動のさなかにある、ということだ。
私のなかで目には見えずとも(そして宇宙のなかでの重力もまた「目には見えない」)発生する重力に対し、私自身は“不快”を感じて抵抗する。
が。
抵抗するのを止め、そこに摩擦を加えるのを止めたらどうなるのだろうか?
心理的抵抗は人間においては自然な現象かもしれないが、そこに意思を介在させずに起こった“動き”をその動きが自然に解消されるまで生ずるがままにしておいたらどうなるのだろう。
思考実験…というか、日々胸の内に去来する抵抗を捉えてそれを試してみたらどうなるだろうか。
いやだ、こわい、みたくない、ゆるせない、それはきらい、はずかしい、いたい、くるしい…
とっさに生ずる抵抗の、そこに流れる感情の色合いは様々でも、それが“抵抗”に類する限り、そこには感じきる前に消し去ろうとする躍起な摩擦が加えられる。
雪崩れも津波も起きてしまえばそれを防ぐことは容易ではない。
もしそこに護るべきものなどなかったら、雪崩れは雪崩れるままに、津波も押し寄せるままに、ただ起きて、そしてやがて消える。
では、振り返って私は、私はそれが起きたとき何が損なわれると思って抵抗したのだろう?何をそれから護りたかったのだろう?
そこで手放せないと思ったのは何なのか。
委ねることを恐れたのはなぜなのか。
こんなひとがいる
彼は所有、嫉妬という摩擦を手放した
関係性において愛した人はいつか彼のもとから去るかもしれないがかといって彼からその人への愛が消えることはないという
去るときは去るままに
生じた愛は摩擦をうけることなく彼のなかに遍在してゆく
その人の宇宙に遍満してゆく
意識のなかに生きる人間の、次に向かうべきフェイズはまさにそこなのだろう。
さて、私のうちにあって私を不自由にする抵抗とは、「わたし」における私の枠組みを狭める防衛行動に過ぎない。
小さな私のこの単位はもうとっくに古いものとなっているのにそれでも手放せないと思い込むことのメリットは何なのか。
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