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別府を終えて

床の間の百合が首からボトンと落ちて、それが造花であることを知っていたからこそすっかり驚いた。プラスチックでも、本物の寿命よりも長く百合として振る舞っているうちに、自壊する際にもまるで花のように散るのかと。咲いていた時には色と形を真似ただけの偽物で、際立つ空虚さに造花は苦手だったけれども、崩れる瞬間にだけ本物になったような、瑞々しい美しさを見つけた。

KASHIMA Artsidt in Residence での新しい作品のタイトルは「Drawing」と仮に名付けているけれども、不失花(うせざるはな) という世阿弥の理念がぴったりと寄り添っている。この言葉とともに、自分のパフォーマンスとインスタレーションをはじめて繋げてくれる作品となった。等のパフォーマンスはというと、プラの造花の潔さに遠く及ばずぎこちなくて苦しかったなと感じるものの、出来栄えを渦中で判断して自責することをやめて、もう少し歩いた先で距離をとって考えようか。細部を突き詰めて広がった景色を見てゆく行為とは反対に、ふいにマスターキーのような単語を見つけてしまった直後には、なかなか筆を持ち替えることができないものだ。この「不失花」は両作品の真を突く単語だけれども、世阿弥の発明なので引用にとどまって、自分は自分の単語を探さなければ。一足飛びにはいかず、地面を足裏で確かめながら一歩一歩探検するうちに、思いがけずしっくりとくる手がかりが見つかるもので、こういう長い思考作業を許してくれるレジデンスに参加できてよかった。


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都市に戻り、荷ほどきをして、ひとつき過ごした一軒家との対比で自分の巣をまったく狭いなと感じるけれど、春の温さのなかに体を馴染ませて眠るうちに窮屈さは和らいでゆく。一つ身体の体積を変えずに細胞が入れ替わり立ち替わり代謝することにのびのびと内に広がる自由を感じて、まだ知らない世界をあたらしく受け入れる準備をしてゆく。

食べるために買ったビーツからツヤツヤの新芽が突き出して、思わず水耕栽培してしまう、という母らしい母の報告をききながらメールボックスを開くと、こちらも時間が加速しながら動き出す。初夏から先のスケジュールを確認するオファーのメールはどれも希望に満ちていて、文面はいままでと何も変わらないのに勇気をもらえる。乾燥した土地で収穫される野菜や果物の甘さを思い出す。困窮し不本意に圧迫された最近がまるごと未来の創作物に甘みを与えてくれるに違いない。

一行余白が生まれたカレンダーはいっときだけ自粛の体裁をとり、実際には新しい予定が流れ込んでくるものだ。誰もが「収束を願う」と文末に添えつつも、願うだけのはずはない、現代人の生き様を見せつけろ。




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