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【エッセイ】「高校生よ、『舞姫』を読め!(とかあえて言ってみる)」

『舞姫』へのブーイング

 森鷗外の『舞姫』をお読みになったことはあるだろうか。

 一度はあるかもしれない。高校の「現代文」の教科書で。

 人によっては内容にうんざりしたかもしれない。うんざりを通りこして怒りをおぼえたかもしれない。主人公・太田豊太郎が最終的にとった「サイテーな」行動に対して。あの「雅文体」とよばれる読みづらい文体にイライラしながら読んだ人も少なくないだろう。

 さてこの『舞姫』、ごく簡単に言ってしまえば、主人公・豊太郎が「出世か恋愛か」の二者択一にいどむ物語だ。留学先のドイツで将来を左右する大きな選択をせまられた豊太郎は、悩んだあげく「出世」を選ぶ。彼はドイツでできた恋人・エリスを捨てて帰国、豊太郎との子供をお腹に宿したエリスはあまりのショックに精神的におかしくなってしまう。

 豊太郎は愛する人になにも告げないまま、祖国での「立身出世」の道へと舵をきる。

 現代の若い読者からのブーイングは、当然、豊太郎の最後の決断に集中する。恋愛小説としては最悪の「オチ」であるし、男女の微妙な心のふれあいが物語のクライマックスとして描かれているわけでもない。国境を越えた男と女の物語は男側の完全な「わがまま」によって一方的に閉じられる。

  以下、高校の授業で実際に『舞姫』を読んだ男子高校生の感想。

《「舞姫」ってどうして教科書に出ているんだろう。(中略)授業中の発言でも、主人公がひどいやつだ、という意見ばかりだったけど、最後の文で、主人公はエリスとの仲を引き裂いた親友を恨む思いがあると書いている。これって「最後に愛は勝つべきだ!」という筆者のメッセージにも取れるんじゃないか。でも、それにしてはことばが弱すぎてよく伝わらないと思う。》

 川島幸希『国語教科書の闇』(新潮新書)からの引用である。

国語教科書の闇

 本書のなかで川島が問いかけるのは、

〈なぜ『舞姫』、『こころ』、『羅生門』などの古くて「暗い」、そして「読みづらい」近代日本文学が、繰り返し何年間も、多数の国語教科書で教材として採用されるのだろうか〉

 という疑問だ。国語教育現場の「思考停止」へ警鐘を鳴らしている。

 私自身は正直なところ、伝統的な国語教材に対して、否定的な思いは少ない。学生時代、『舞姫』の授業はけっして苦ではなかった。いや、むしろ楽しめた方だったかもしれない。(しかもいまでは高校生に現代文を教える立場だ。)

 だから河島の投げかけるこの問いに、客観的な視座で向き合い、万人が納得できる答えに辿り着くことは、私にはともすると普通の人以上に困難である。(ことに『こころ』や夏目漱石については私は「一・大ファン」の立場を越えられないから、どうしても保守的になってしまう。)

 けれどもあらゆることに対して思考停止は好きではない。現状維持とはすなわち後退である。ところが国語教育の現場では、その悪しき「現状維持」が、恐るべきことに四半世紀以上も続いている。現実問題として、現代文の教科書に皇帝のごとく君臨し続ける『舞姫』は、これほどまでに高校生たちに「不人気」なのだ。

学習指導要領の改訂

 ところがここにきて、高校国語科教育に革新的な動きが起こった。

 新しい学習指導要領によると、文学は独立し選択科目に変更、科目としての優先順位は(受験を想定した優先順位は)「論理国語」に対して相対的に下がる、というものだ。

 ついに『舞姫』を、鷗外先生を、現代の高校生たちのブーイングから遠ざける、偉大な先達に「安らかに眠っていただく」機会が訪れた……と、この大変革を私たちは歓迎すべきだろうか。

個人的には、やはり、ノー、と言いたい。

 そして文学へのこの冷遇に対して、『舞姫』をはじめとする近・現代小説の傑作の数々の、「現代の若者」が読むことの価値を低く見積もりすぎじゃないですか、文科省の皆さん? と、ここはどうしても「一ファン」の目線に立って、強く言いたい気持ちになる。

『舞姫』とその時代

 先日、駒場にある日本近代文学館に行ってきた。企画展「森鷗外『舞姫』とその時代」を観るためだ。

 文学の「選択科目降格問題」に対する、確固たる反抗と闘争の意思を養うためにも、いまこそ鷗外を学んでおこう……というのは口実で、単におもしろそう! という好奇心の赴くままに行った。

 展示は、膨大な資料数というわけではなかったが、委曲を尽くした解説が必要最小限の資料とともに展開されているという印象で、とても観やすかった。

 そして私は私の「客観的な」思いを、あらためて強くした。

 『やっぱ『舞姫』って、教科書に載ってたほうがよさそうじゃない?』。

 そう考えたわけは、作品の不人気の理由そのものにある。

 『舞姫』で描かれているのは、エリート留学生・豊太郎の、いわゆる「近代的自我」との出会いだ。鷗外はそれを「まことの我」という言葉で表現した。豊太郎のなかに眠っていた「まことの我」が、西洋の自由と繁栄の空気に触れ、恋を知ったことによって、豊太郎自身に問いかけはじめる。〝お前にとっての本当の幸せって、いったいなんだよ?〟と。豊太郎は苦悩する。「目の前の勉強のことだけを考えていればいいのに、ついつい女の子のことばっかり考えちゃう。ああ、なんてオレは弱いんだ!」と。自分自身を責めてしまう。

 さあ、近代学校教育は、このような悩める青年に対して、どのような答えを導くことができるだろうか。

学校の潜在的教育効果(ヒドゥン・カリキュラム)

 学校は、現行の社会の「建前」を教える場所だ。社会通念、常識やモラルとよばれるもの、人は一人で生きてはいないということ、礼儀や協同の精神。学校の風土において、「建前」よりも生々しい「本音」を語ることはリスクを伴う。そんなことを積極的に選ぶのは、金八先生やグレート・ティーチャー・鬼塚くらいだろう。(筆者よ、おまえは文学よりもテレビが好きなのか?)学校や教師はまず第一に、これから社会に出てゆく若者に対して「きれいごと」を教える。「本音」の部分を子供が知らず知らずのうちに学んでゆくことは、学校という「体験」がもつ潜在的教育効果(ヒドゥン・カリキュラム)とよぶべきだろう。

 『舞姫』の太田豊太郎は、社会の「建前」に適うような、「道徳」の教科書で教えられるような、選択をしなかった男だ。恋人を捨て、我が子を捨て、立身出世の道を選んだ。しかも自分の復帰に一役買ってくれた友人を、内心では少し恨んでいるとさえ言う。残された恋人は精神を病んだ。かたや自分は祖国で功名心をふたたびメラメラと燃やしている。そしてそのことを物語というかたちをとって、白状する豊太郎(=鴎外)がいる。

 現代日本の健全なティーンエイジャーたちは異口同音に「豊太郎はサイテーだ!」と言うだろう。さらに「これを書いた森鷗外ってオジサンもついでにサイテーだ!」とも言うかもしれない。でも、若い彼らだって、内心では思っているのではないだろうか。こういう「建前」では片付けられないことって、世の中には意外とありふれてるよね、と。

 それこそが、文学が語る、芸術が写しだす、人生の「本音」の部分だ。

 高校生たちだって、恋愛の二股くらいはしたことがあるかもしれないし、これからすることになるかもしれない。先生に裏表のある態度を使い分けているということも、ないとはいえないだろう。(健全なティーンエイジャーたちよ、ゴメンナサイ。)

 学校や教師が教える「建前」に対して、文学は、教科書に身を隠しながら静かに慎ましく、ときにブーイングを浴びながらも力強く、対抗し続けてきたし、し続けねばならない。それはもはや文学の宿命のようにも私は思う。

 芸術は、あるいは芸術が写しだす人生は、美しいばかりではない。ときにグロテスクで、ときに残酷だ。けれどだからこそ、生の一側面からの真実がそこに在るともいえる。「建前」ばかりでは乗りこえがたい、人生のグロテスクな一面——それを知らない人生に越したことはないけれど——に、向き合わざるを得ない瞬間が、私たちの将来に一度や二度はやってくる(かもしれない)。子供たちが文学の世界で豊太郎やエリスになりきって、その激烈な苦悩をロール・プレイングしてみる価値は、きっとゼロではないと思う。

 そしておそらく、私たちは気付かされることになるだろう。

   時代が変わろうと、舞台となる国が変わろうと、人はみんな同じようなことで悩んでいるんだ、と。読者自身が私は豊太郎だ、と思うこともあるだろうし、作者の文体に滲む葛藤や苦悩が現代の悩める読者を静かに励ますことだってあるだろう。

文豪たちは「しくじり先生」だ!

 『こころ』もそう、『羅生門』もそう、教科書内外で重宝されてきた文学作品は、「人間の弱さ」にとことん向き合い、生々しい言葉でそれを描きだす。正直であることは痛々しくて、ときに滑稽だ。けれど偉大な文豪たちが、率先してその道化を演じようとしたということが、現代の私たちを勇気づけはしないだろうか。

 学校教育は、子供たちに豊太郎みたいな決断をしてしまわない未来も、エリスみたいな涙を呑まなくて済む将来も、保証してはくれない。過去の人の失敗や挫折から学ぶという、秘かな機会を、保証してくれるばかりだ。「文学」という無法地帯、解放区の力を借りることによって。

 そう、豊太郎(=鷗外)は、近代日本黎明期の、偉大な『しくじり先生』なのだ!(筆者よ、おまえはテレビが好きすぎるな?)

 そして全高校生たちよ、豊太郎みたいな人とのサイテーな恋に悩まされるまえに、ぜひとも、『舞姫』を読め!

〈終わり〉

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