『日光東照宮へ行ってきました』 【エッセイ】
朝まで降りつづいた時雨が去った。
午前9時。温もりはじめた空気は澄んで、空は気持ちよく晴れていた。ドライブ日和。レンタカーで日光まで走った。
東北自動車道を慣れない運転でとばす。栃木県の県境を通過して間もなく、山肌が淡い朱の色に色づきはじめる。多少盛りを過ぎたとはいえまだまだ美しい季節の色が手招きをするかのよう。追い越し車線に車線変更してハンドルをつよく握る。お腹もすいてきた。
到着は正午をまわった頃だった。そのころには気分の高揚のせいだろうか、空腹もすっかり忘れていた。やっとのことで見つけだした麓の駐車場に車を停めて、そのまま本殿へと向かった。
平日の昼間だから人もすくないだろうと高をくくっていたら、まったくそんなことはなかった。お客のほとんどは高齢者か、海外の人だった。欧米系の外国人は体が大きくて存在感がある。お年寄りには気をつかう。あわよくば「貸切」みたいなことを想像していた自分が馬鹿だった。
道は鮮やかに色づいていた。紅葉の季節を逃さずに来た判断を正解だと思った。もし一週間来るのがはやかったら、もっと派手な装いの木々を見れたのかもしれない。けれど当日の落葉のようすも季節の儚さを感じられて、自分としては満足に思えた。ひとつ、またひとつと道の上に葉が落ちる。
木の背がとにかく高い。われわれが木に「守られている」という印象だ。東照宮下の岩盤はひじょうに堅固であるらしい。あえてそこに建立したのだ。日本人の生は、あらゆる営みは、いつの時代も自然とともにあった。自然を征服する、凌駕するのではなく、自然とともに生きてゆくという人生観、自然観。生き抜くために自然を「利用する」という発想もあり得るだろう。けれどそれをないがしろにするということは決してしない、してはならない。日本人にとって自然とはあくまでも畏怖すべき対象なのだ。
東照宮は絢爛たる建造物を護る自然の美しさがあってこそ、これだけの人を魅了している。
そんなことを考えているうち、あっという間に国宝に辿り着いた。
陽明門。
陽が明らかにあたる門。いい名前だなと思う。ここにも「陽」という自然への敬意が込められているのかもしれない。
写真で見たとおりの派手な門だ。教科書に載っているその姿よりも一段と風格があって、存在そのものが迫ってくるような力をもっていたという気がするのは、やはりこの周囲を取りかこむ自然の豊かさが理由だろうか。「パワースポット」という言葉がいまさらながら理解できた気がした。
きっとこの地には正真正銘の「パワー」があるのだろう。それは自然がもたらす、名状しがたいもの。「パワー」というあいまいな表現をあたえることしかできないが、やはり私たちは自然に守られて生きている、そのことに自覚的なのである。
陽明門には数多の彫刻が飾り付けられている。それを支えるのは12本の柱だ。
そのなかに「逆さ柱」という有名なものがある。グリ紋とよばれる紋様の向きが上下逆さになっている。もちろん施工ミスではない。
「これ以上にない完全性」を嫌ったということだ。月が満ちれば次に待つのは「欠けてゆく」ということ。永遠を願うからこそ満たさない、建築を完成させないという一種の験担ぎである。海外の観光客にはこういう部分こそ愉しんでもらいたいと日本人としては思う。
本殿を見届け、その上のすっきりと晴れた初冬の空を見上げる。素晴らしい天候に恵まれたことを感謝する。木々の緑が柔らかな風に揺れている。「パワー」を感じる。
「眠り猫」がいた。有名な彫刻の猫だ。その裏には雀の彫刻がある。
天敵の猫がそばにいても雀が安心して暮らすことのできる場所ーーつまり眠る猫は平和の象徴というわけだ。「家康さまのお墓を護るのに寝てて大丈夫なのかよ?」と、いらぬツッコミをした自分の無知を恥じる。
あいかわらず人はたくさんいるというのに、山道の階段を上れば上るほど、ふしぎと静寂は増してくる。風の音がよりはっきりと聞こえはじめる。外国人観光客の気配すら遠くなってゆく。
木々に囲まれた緑の空間に森厳として家康公のお墓はあった。立ち入れない場所の面積の広さに重要文化財の説得力を感じた。
その傍らには「叶杉」(かなえすぎ)。
看板の説明書きの漢字を見事に誤読しまくりながら音読する日本人女性が近くにいて、笑ってしまった。この杉がどんな人の願いでも叶えてくれる、懐の深い杉であることを願う。
僕も願いごとをしてみる。〈この記事がたくさんの人に読まれますように〉……ウソだ。もっと欲張りなことをせっかくなので、願ってみる。
陽明門、そして有名なお猿たちのいる神厩舎を過ぎて、来た道を下る。そのまま駐車場へとは向かわずに、麓のお土産屋さんをのぞく。けっきょく昼食はコンビニのおにぎりで済ませてしまった。麓に沿って迂回しながら紅葉を愛でつつ帰る。
道中、傍らの用水路に今朝の雨のせいだろうか、水がいきおいよく流れていた。激しい音がする。道を往ききると、角で水路が二手に分かれた。水量が落ち着いたその先に、色づいた落ち葉が流れのなかで揺らめきながら、いくつもそこにとどまっていた。まるで葉に宿る生命が、流されてしまうことにささやかに抵抗するかのように。
水面に照りかえす午後の柔らかな日差しと、その下の葉の色彩がとても美しかった。来てよかった、とこんなささいなことにも心から思える、初冬の一人旅であった。
〈終わり〉
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