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【小説】 『限りなく個人的なimageの話』

 ここに書き記すのは、限りなく個人的なimageについての話。僕自身にとってそれをいま書き残しておくことには、限りなく個人的な――けれどけっして小さくはない――意味があると思う。それはたとえば僕の将来において、そのimageが再び前触れもなくやってきたときに、僕自身がそれに対していくらか自覚的でありたいという、限りなく個人的な願望によるものだ。

 僕がそのimageに対していくらか自覚的でありたいと希望するのは、それが僕の夢の――寝て見るほうの夢の――入り口のすぐ手前に、まるで親しい亡霊が〝夢枕に立つ〟ようにしてほのかに現出して、僕を涙ぐましい混乱にいざなう性質のものだからだ。それは現象としては所謂「金縛り」の切迫感に似ているけれど、実態は、不自由による息苦しさなどはいっさい感じず、むしろ体が空間に対して「開かれている」、「解き放たれている」という感覚を伴う。ところがそれにもかかわらず、たとえば夢のなかで空を飛んでいるときのような、自由な解放感は起こり得ない。ベッドのなかでは、不自由の対極もまた不自由であるらしい。

 夢の入り口という表現がどれほど正しいかについては自信をもって答えようがない。眠りに就いて、意識が深みへと下ってゆく、まさにその意識の境界を無意識の側へと跨ぐ寸前に、そのimageはとつじょ訪れる。それは昨夜の場合は、一定の長い時間をかけてのことだった。そう、それは昨夜のことなのだ。

 ここで僕は、現象学的に夢を解析してゆくことを目指してはいない。僕自身の体に昨夜、忌々しいほどの現実感を伴って起こったあやふやな混乱をなんとか言葉にすることで、そのimageの輪郭や手触りをはっきりとさせたい、そんな興味があるだけだ。けれどその興味に終わりはこないだろう。なぜなら僕が体感したのは、どこまでも実体をもたない、抽象的なimageに過ぎないのだから。

 ――(安部公房は、その朝みた夢の記録を毎朝、日記に残していたときく。かれのシュルレアリスムの作風は、実際の夢の記録から地続きの文体なのかもしれない。あるいは作品世界に没入するあまり、頭のなかで描いた超現実的世界を夢見るまでになったということだろうか。「夢日記」を付けるほどには睡眠の充実していない僕には、まるで想像が及ばない話である。)

 僕のそのimageへの強いこだわりは、それが僕にとってある種の懐かしさをもつimageであるということに理由がある。どれくらい自分が子供であったのかさえも自覚し得ないくらいの子供の頃、しばしばそのimageを夢の入り口にみた。それはその頃住んでいた家の寝室の壁の染みの模様と重なり、それをぼんやりと連想させ、またその日の混沌とした子供らしい頭のなかの喜怒哀楽まで呼び起こそうなほどの懐かしさなのだ。

 それが現れるとき、僕は体に不調を感じていたような気がする。熱があったか、それとももっと漠然とした不安があったのか――泣きながら、母親を呼んでいた記憶がある。寝室の両側の染みのあるざらざらとした砂壁が、寂寥感の結晶のように意識の内側に素早く凝固しては溶け去ってゆく。リアルな触感を伴うが、それはたちまち雲散霧消して、電気の消えた、狭くて暗い部屋に僕はひとり取り残される。漠然とした不安は昨夜もあった。体調がすぐれないわけではないが、消極的な思考が渦を巻いていた気がする。心理学的にいえばRegression(退行行為)を無意識が求めていたということなのだろうか。宙に解き放たれる感覚は、あるいは永遠の過去に突き落とされる、その途中の無力感だったのかもしれない。

 imageは突然、僕の体に上から折り重なるようにしてやってくる。――昨夜、僕はその不意打ちの懐かしさに、思わずあっ、と、声をあげかけたのだ――ところが声が出ない。僕の無防備な体は腕からむくむくと膨張をはじめ、抗う力が入らない。指の先から足の先、頭のてっぺんまで、膨張した体は徐々に自分の輪郭がぼやけてゆくという感覚に満たされる。それは空間に対して「拡がってゆく」というものにも近い。三次元的に僕は解放されてゆき、やがてimageそのものになる。空間そのものになる。そのとき目に映っているのは、あの砂壁の染みなのだ。それは幾何学的な模様にも見え、宇宙の果ての混沌も同時に感じる。正体を見極めようとすると、それはやはりちっぽけな砂壁の染みに過ぎない。それに触れると、懐かしさが溢れたあとで、たちまち真っ暗な部屋の寂莫に襲われて、涙が出そうになる。

 魂が世界に取り残されている。――

 個人的な肉体が意味を失って、途方に暮れた僕の魂が、僕の肉体そのものになった世界をわずかに照らしている。世界は途方もなく広い。それでいてそこは砂壁の染みに集約される世界であり、どこまでも幾何学的模様に満たされながら、また混沌とした寂寥感もたしかに存在する。僕は懐かしさという感情をたしかなものとして魂にとどめておくことができない。そこは時間という概念のない世界で、僕が遠い過去だと思っていたあの頃はいままさに目の前にあった。砂壁の染みが僕にとっての世界そのものなのかもしれない……――

 僕が時間の感覚を取り戻したきっかけは、あまりに単純すぎるけれど、枕元の目覚まし時計の音だった。針は深夜1時40分を指していた。壁の染みは消え去って、窓の向こうに街灯の光がぼんやりと揺れていた。それはimageなどではなく、胸の内には寂寥感だけが、懐かしい悲しみの余韻として残された。体の芯があたたかかった。僕はこのぬくもりを抱きしめて、再びあのimageの世界を取り戻そうと試みた。けれどそうすればそうするほど、あの壁の染みは現実感を失って、それがどんなものであったのかさえわからなくなり、ただ漠然とした悲しみの余韻だけがはっきりとした存在感を高めてゆくばかりなのだ。……

   *

 見たもの、想像したものを過不足なく文章にできるということを自分の強みだと信じて生きてきたが、正直、今回はその強みの限界を知ってしまった気がする。限界は思いがけずあっという間にきた。がっかりだ。何年かあとにこれを読み返した自分が、imageの手触りそのものでなく、それを表す過去の自分の言葉に不満を覚えそうな気がしてならない。限りなく個人的な話は、黙っておくのがどうやらよさそうである。

〈終わり〉

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