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「初心者のための、リアリズム文学としての『源氏物語』」 【文学エッセイ】

 《英語で「ファンタジー」と「リアリティ」というふうにしていちおうみんなが区別していることが、いっしょになっている、重なってひとつの現実として語られているというのが、あのころの物語ではないかと私は思います。》

 上記は、1995年に行われた、絵本・児童文学研究センター企画のシンポジウムのなかで、臨床心理学者の河合隼雄さんが語った言葉。

 「あのころ」とは平安時代を示している。平安時代の文学、その代表格である『源氏物語』を例に挙げ、河合さんは日本語と日本文学の特性について見解を語った。(講演の内容は、岩波現代文庫から『日本語と日本人の心』というタイトルで書籍化されている。私はそれを読んだ。)

 「ファンタジー」をひとつのキーワードとしてすすめられた講演のなかで、日本における「ファンタジー」としての物語の原初を、『源氏物語』などの平安時代の文学のなかに見出す見方に、河合さんは否定的だ。

 『源氏物語』中の、物の怪や生霊という「非・現実的」なものはすべて現実、リアリズムとして描かれたのだと河合さんは指摘する。言葉はこうつづく。

 《現代では自然科学でわかるような現実を、これが現実だというふうに思い込みすぎる人が多すぎるので、現実というのはもっともっと層があって、多層的であって、そして自然科学というのはそのなかのひとつの層を見ているのだというのが私の考え方です。

 《自然科学だけで現実を見るということは、非常に豊かな世界のうちのひとつだけ見ているのにすぎません。

 西洋的な発想が、大きな力をもって日本の国土に流入し、古来の文化形態やそこに住む人びとの考えかたまでを大きく変えてしまった出来事、それが明治維新をはじめとする近代化だと定義したうえで、近代化よりはるか以前の私たちの国の文学は、河合さんの言葉を借りるならば「非常に豊かな世界」を描きだしていた。

 「非常に豊かな世界」、そこには「目に見えないもの」が、もしくは「本来、見えるべきではないもの」が跳梁跋扈する。無論、「見えるべきではない」というのは、自然科学という絶対的な色眼鏡を皆が疑いもせずかけてしまった、この現代社会の基準においてだ。

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 『源氏物語』のクライマックスのひとつに、六条の御息所が生霊となって葵の上を苦しめ、死に至らせるという、非常に有名なシーンがある(『葵』の巻)。

 六条の御息所は源氏への悲恋に苦しむ物語の最重要人物の一人だが、貴族としての彼女を当世風に言い表すなら、「超ハイスペックでプライドが高いセレブ」といったところか。現代の女性が(男性が)御息所に時代と立場を越えて共感できる点は、「恋心の切実さ」であろう。恋の辛さは物語に永遠性をあたえる。恋は永遠である。

 彼女のなかで募る思いは、源氏をめぐる恋人たちへの嫉妬心、復讐心として痛切に描かれる。御息所はついに生霊となって、源氏の恋人を夜な夜な脅かすほどの存在になる。

 作中に描かれた、現代人にとっても限りなくリアルな恋の在りように共感する一方で、葵の上や夕顔が「実際に」見た物の怪の存在を、「現実的なもの」の線引きの外側に置く。そのことによって『源氏物語』をファンタジーの文学として位置付けてしまうとすれば、それには日本人としてのある種の抵抗を覚えてしまう。それは、日本人としての、なにか大切な、土着的な精神性を自然科学の名のもとにないがしろにする発想ではないか。――というのが河合先生の主張だと私は解釈する。

 いわば、現実(リアリティ)との線引きを、どこに設定するかという問題。

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 近代の西洋は、「私」すなわち「自我」と、その外側にある事柄とをきっちり区別し、世界のなかの「私」を合理的に構築することによって、社会を、文明を切り開いてきた。自然科学は、その区分けの線引きに社会的な承認をあたえる、ひとつの絶対的な基準であった。物の怪や生霊が「そんなのありえません」と一笑に付される世界観が、ここにできあがった。

 しかし、いにしえの日本人、すくなくとも紫式部にはその線引きは意味をもたなかった。というより、我々が「現実」として認識している世界よりはるかに多層的な世界に、彼女は(彼女たち)は生きていたのである。そのなかで生まれた『源氏物語』は、れっきとしたリアリズムの文学と呼ぶほかないだろう。六条の御息所の生霊も、葵の上の死も、それらを現実の「外側」の出来事として区分けするための線引きは、どこにも存在しなかったのだから。

 彼女たちの現実を取り巻いていたのは、人びとの激しい情念、そして無意識の領域で息づくリビドー(本能のエネルギー)のせめぎ合う力だった。平安期の文学者たちは、それらの抑えがたい生命のエネルギーがときに霊として、ときに怪として、人の世に顕在化することを知っていた。あくまでも現実のこととして認識していたのである。

 近世では、『雨月物語』を著した上田秋成は、そのことを現実的に認識していた文学者の一人であろう。現代でそのことを象徴的に描く作家を一人あげるとすれば、村上春樹であろうか。

 日本の文学は、そういった無形のエネルギーや霊的な現象を、現実のこととして捉える歴史を絶やさなかった。それは日本人が、自然科学のフィルターを取り払ったときに見える多層的な世界を、ひとつの現実として捉えようと努力しつづけたことの証ではないだろうか。その端緒に、『源氏物語』はある。

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 あるいは自然科学という力強い味方を得た私たちは、逆説的に、現実と非現実との境界線の置きどころに懐疑的にならざるを得ない立場であるともいえるかもしれない。不安定な線引きの上を行き来するのは、情念やリビドーといった、合理的な説明を越えて、他者に激しく訴えかける力の存在である。物の怪や生霊をその目で見たことがない人にとっても、「目に見えない力」を意識したことは、一度や二度のことではないのではないだろう。六条の御息所の着物に芥子の香が匂ったように、私たちは無意識のうちに、誰かの切実な思いを感じとっているのではないだろうか。

 現実「とされているもの」ではなく、たとえそれが寝て見る夢のような一時的なことであれ、現実として「私が認識したもの」を「真実」として捉えるということ、そのことは、現代の私たちに非常に示唆的な問いを立てる。それは突きつめていえば、〈わたしたちはどう生きるか〉ということだ。

 日本人としての私たちは、現代社会を生きる私たちの生に、じつに日本人らしいやりかたで、切実さと豊かさを取り戻すことができるのかもしれない。私たちの目の前の「真実」は、本来はかぎりなく個人的なものである。それを思いだすということ。――たとえば誰かの恋心が、それがどんな非現実的な成り立ちで、幻想的なものであったとしても、当人にとっては切実な「真実」であるように。

 私たちが六条の御息所に共感できるのは、その思いの切実さが、現実の枠組みを超えて他者に訴えかけるということを「ファンタジー」としてではなく、「リアリティ」の枠組みのなかで、実感しているからかもしれない。

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 この歌にこめられた思いも、時を越えて、限りなくリアルに響く。

 袖濡るるこひぢとかつは知りながら下り立つ田子のみづからぞ憂き(六条の御息所)

 「泥沼と知りながら、この恋路に踏みだす私って、ばか!」(だいたいこんなことを言ってます)。

 教養があり、地位が高く、美しい女性も、〈どう生きるべきか〉という問いに、いつも苦しんできた。『源氏物語』が読まれつづける理由は、私たちの生きかたを問いなおすために重要な、永遠のテーマが、そこに「リアルに」描かれているからなのだ。

〈終わり〉

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