【短編小説】 『兎』

   二

 職員室を出たのは午後6時半をすこし過ぎた頃だった。このとき、私の身体の隅々までどこを探しても、匡彦を受け入れる「余白」というべきものは、正直なところ、もう残っていなかった。私は心身ともに疲れきっていたのだ。

 私はかれとの約束を果たす義務感だけのために、張り詰めた、重い体を引きずるようにして、ふだん使っている門とは反対の方向にある、学校の正門を目指して歩いた。私より一足先に職員室を出た匡彦は、部屋を出て七、八分後、「正門で待ってます」という簡潔なメールを、まだ仕事中の私のノートパソコンに寄越した。私は『学級だより』の制作を中断し、大きな伸びをして、ゆっくりとした動作で帰る準備をはじめた。私たちは二人そろって、あるいはどちらかがどちらかを追いかけるようなタイミングで、職員室を出ることを、あえて避けた。その点はかれとの暗黙の了解だった。このとき職員室には教頭先生と数人程度しかほかに先生はいなかったのだけど、私はそれでも自分たちの動向の「不自然さ」に対しては厳しく取り締まって損はないと判断していた。疲れているのに、こういった点では如才ないところは、私の長所だろうか、短所だろうか。

 晩夏の夕暮れどき、三階建ての校舎の背景にひろがる青空には薄いオレンジ色の光が、まるで水彩画に色を重ねるようにして淡く混ざりあおうとしていた。蒸し暑い空気のなかにも秋らしい爽やかな微風が小さな音をたてて息づきはじめている。疲れきった私はわずかに癒された。今夜の、匡彦との時間を、私は約束をした先週の金曜日から、じつのところ楽しみにしていたのだ。

 それなのに今週一週間、まるでいいことがなかった。

 子供たちは、夏休みの気分が抜けきらないせいだろう、全体的に落ち着きがなく、宿題をしてこない子も多かった。それは想定していたことだったとしても、問題は、ADHDの弓本くんの普段以上の落ち着きのなさ、そしてそれに追い打ちをかけるようにして起こった、クラスメイトからかれへのいじめ、もしくは「いじめのようなもの」だった。「いじめのようなもの」、往々にしてそれは立派な「いじめ」である(受け手が不快な思いをするのであれば)と、正義感のつよい教師なら、たとえば匡彦なら、そうきっぱりと断罪し、それに加担した児童を全員、徹底的に叱りつけるだろう。一方で、叱ることや声を張ることが苦手な私は、クラスの「いじめ」と向き合うことの責任の重さに気後れしてしまって、歯切れが悪くて冗長で、しかもなにを子供たちに伝えようとしているのかいまいちはっきりしない説教を、昨日までの三日間、ずっとつづけていたような気がする。私は実質的に「いじめ」を、見て見ないふりをしたのだろう。そんな自責の念も含めて、ほかの先生を基準にすれば、ずいぶん必要以上のエネルギーを子供たちのために費やした一週間だったと思う。いまの私には「余白」なんかどこにもない。

 週末までに書き上げようと思っていた『学級だより』は、こんなことがあったあとでは、学級の子供たちにむけてなにを書いたらいいのかわからなかった。ほとんど書き進められず、私のノートパソコンは匡彦からのメールを受信することで、今日の数少ない役目を終えた。

 正門に着くと、そこにいるはずの匡彦の姿がなかった。かれを探して振り返ると、私が通ってきた校舎沿いの通路の向かいの体育館脇の敷地に、間隔を空けて駐車されてある教員たちの車が、夕暮れどきの淡い光をあびてその大小の車体を鮮やかに光らせていた。なかでも車好きで見栄っ張りの教頭先生のBMW X5は、それらの車列のもっとも奥で、異様なほど立体的で生物的な存在感をこちらに投げかけていた。と、その背後にふらふらと背の高い人影が現れ、こちらを向いた。よく見るとそれは匡彦だった。匡彦は私の姿を見つけると、胸の前で手を合わせながら(それは私への謝意を表しているようだった)、体育科の教師らしいきびきびした動作でこちらまで駆け寄ってきた。やけに大股で走る人だと思った。

「ごめん、待たしたよね」とかれは言った。

「大丈夫。『学級だより』の中身、考えてたから」と私は笑顔でこたえた。それは自然に込みあげた笑顔だった。「ぜんぜん終わんなくてさ」

「ご苦労さまです」、匡彦は無邪気な少年のように笑った。

「私より先に出てたのに、遅かったじゃない」と、かれを責めるような口ぶりにならないようにつとめて優しく、私は言った。「なにかしてたの?」

「兎小屋、見てたんだ」

「兎小屋?」

「『ピンク』がさ」と匡彦は今度は照れたように笑って言った。「すっかり大きくなってて、びっくりしちゃったよ」

 すると匡彦は左手で私を促した。私は促されるままに、正門の外へと歩きだした。

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 気持ちよく酔った勢いのまま、ホテルへ駆けこんだのは、「魔が差した」というべきだろうか。私にも、匡彦という頼もしい味方がいさえすれば、「若気の至り」みたいなことを実行できる、積極的な一面があるのだと、久しぶりの痛飲の余韻に浸りながら、私は我ながら驚いていた。クリーム色の天井を見つめる私の頭の上には、匡彦の右腕が柔らかく伸ばされていて、それはなぜか使い慣れた枕のように、私をこれ以上なく癒し、安堵の眠りのなかへ私を誘うようだった。

 私には「余白」はなかったはずだった。が、男の人の率直な好意を受け入れるということは、それによって心の隙間の一部を「埋め合わせる」ということではないのだと、私はそのとき知ったのだった。私は根本的に間違っていたみたいだ。「余白」はないけれど、私の心を埋めつくすあらゆる事柄が、匡彦の中に質感も濃度もそのままに流れこんでいる。かれの心とわたしの心は自然な連関をとおしてつながっている、という奇妙な安堵感と期待を私はいだいていた。それは私にとって新鮮なことだった。

「『ピンク』のこと」と私は言った。「今年お世話してるのは、わたしたちの学年なんだよね」

 ああ、と匡彦はかぎりなくニュートラルな返事をした。「そういえば、そうだったね」

「わたし、動物、苦手なの。もちろん、ピンクだって例に漏れず」

 匡彦は意外そうな顔をして、私のほうを見た。

『ピンク』とは、学校で飼育している兎の子の名前だ。ピンクは、匡彦が昨年、副担任として担当していた四年三組が育てた兎、『ゆき』が夏に生んだ、まだ赤ん坊の兎だった。

〈つづく〉

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