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エッセイ 『旅と読書』

 近頃は車のハンドルを握ることがおおくなったせいか、旅の友に一冊の本を携えて気の向くままに、という旅への憧れが日に日に増している。

 運転席で意のままに車を走らせて自由な旅もいいが、見知らぬ駅名のインスピレーションにみちびかれるままに、列車に揺られてさまよう旅というのもなかなかのものだ。そぞろ歩きの休息に立ち寄るカフェで開く本があれば、なおよし。

 2年ほどまえ、旅先で夏目漱石の『草枕』を読んだことを思い出す。

 『草枕』の主人公の画家は「非人情の旅」のさなかであった。

 人情に非ず。人間のあらゆる営為に対してどこまでも客観的でいるということ。社会や世間から一定の距離をたもったうえで、そのすべてを注意ぶかく見つめること。それは漱石の、芸術や文学における文体への求道の精神そのものであったようにも思われる。

 文豪はどれほどに孤独な人だったのだろう。

 芸術作品の背景にある「作者の孤独」というものに光を当てたとき、作品の陰影とともに、作者その人への共感や共鳴という部分において「はたして自分の想像力のおよぶものだろうか?」という、弱気な思いもまた芽生えてくる場合がある。明治時代の知識人の悩みなど理解できるわけがない――しかもそれを小説という表現をとおして――そんなあきらめが作品の偉大さと比例して、近代文学への「近寄り難さ」にかわってしまっているとしたら、私たちとくに若い世代は大きな損をしているのかもしれない。

 さて、私にとっての列車旅の醍醐味は、その道中、手元の本からふと顔をあげたときに視界にとびこんでくる、そしてあっという間に流れてゆく、数々の風景だ。

 数々の、という言い方を敢えてしたのは、それが一つの窓越しの視点から、ある全体を角度をかえて立体的に見ている、という感覚と、あるいはおおきく異なるからである。

 車窓から見える風景はとても不思議だと思う。

 たった一瞬の風景が、念入りに描きあげられた美しい絵画のように、力づよく胸にせまってくることがある。ところがつぎの一瞬に、それは色や形をすっかり変えてしまう。その目まぐるしい展開は終点の景色まで止まることがない。(信号トラブルや「人身事故」がなければ……。)

 観光地の、つくりあげられ、完成された特別な風景よりも、田舎の青田の広がりや、冬の枯れ野の寂莫たる眺望が、まぶたに焼きついて離れないことがまれにある。それはそこに佇んで眺め入っているよりも、ふと目線を車外に向けた瞬時に飛びこんでくる、そしてあっという間に列車の後へと過ぎ去ってしまう、儚い夢のような眺めであるからなおさら、色濃く旅路を彩るのであろう。

 私はこんどこそハンドルを握らない、気楽な旅をしようと思う。運転手には、風景を堪能する余裕が、残念ながらほとんどないのだ。

 列車でないならば、だれかに運転を任せてみるのもいい。運転を替わらないことを抗議されたら、「非人情の旅をしているから」と、『草枕』の主人公みたくこたえてみようと思う。

〈終わり〉

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