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『大いなる一瞬のための70万時間』【短編小説】


「そこのお兄さん。お兄さん、きみだよ、きみきみ」

 帰ろうとしたところを呼び止められた。しわがれてはいるがいきいきとして明瞭な声が背後に響いた。僕はすこし躊躇ったが、仕方なく踵を返して、テーブル席に不安定に腰掛ける老人を振り返った。

「きみは、〝大いなる一瞬のための70万時間〟について、どう考える?」

 僕ははじめて見るその老人を、瞬時に「ソクラテス」と命名した。おそらくは哲学に分類されるであろうその問いかけと、かれの浮浪者じみた身なりが、僕のイメージするソクラテス像そのものだったのだ。

「大いなる一瞬のための70万時間、ですか」

「そう。大いなる一瞬のための70万時間、だ」

 困ったな、と思った。問いそのものに対してではなく、困った人に捕まってしまったな、と思ったのだ。

「70万時間、とはいったいなんの時間でしょう」僕はひとまず愛想よく返してみる。

「人の生の時間である」ソクラテスは答えた。

 なるほど24時間を365日で掛けて、人の寿命の年数をさらに掛けあわせたら、およそ70万時間くらいになる、と、そんなところだろうか。

 ソクラテスはつづけた。

「80年を人は生きると仮定する。これはあくまでも仮定である。ところが、不確実な生に対して、死は確実にどこかのタイミングで必ず一度やってくる。これは仮定ではない。これは運命だ」

 僕は急いで帰らなければならなかった。新婚の妻をうちに待たせていた。友人が脱サラして開業したバーとはいえ、金曜日の夜にこんなところに来るべきではなかった。こんな場末のバーには哲学者のひとりやふたりいるものだ。そして哲学者のふたりにひとりは浮浪者だったりするものだ。

「ごめんなさい、おじいさん。僕は急いでいるんです」

「悲しいとはおもわんかね」

「はい?」

「きみは、悲しいとはおもわんのかね」

 僕は人生の悲哀についての興味よりも、僕の貴重な70万分の0.1時間でもかれのために無駄に過ごしたくないという思いをつよくいだいた。

「70万時間という不確かな生は、すべて確かな死に向かっているのだよ」僕の思いにもお構いなしに、ソクラテスは深い皺を刻んだ顔にさらに深い陰影をつくって言った。

「我々は70万時間ものあいだ不確実の波にさらされつづけた挙句、その波によって確実に、死の瞬間へといざなわれるのだ。どうだきみ、人間が悲しいとはおもわんかね」

「でもおじいさん、死が絶対的なものであるからこそ、我々には喜怒哀楽が許されているのではないでしょうか」僕は思わず乗ってしまった。

「なるほど。若者らしいな」

「若者らしいかどうかはわかりませんが……」僕はむきになって議論を進めようとする自分自身を制止したいのだが、言葉が理性を振り切ってしまう。「死が確実だからこそ、我々の情緒は確実なのです」

「情緒が確実か、ますます若者らしい!」ソクラテスの快活な笑みは僕に不快感をもたらした。それならば、と僕は不本意に勢いづく。

「確実という言葉が適切でないなら」僕は冷静になろうと努めた。それはこの議論に手早く勝利するためにほかならない。「死が仮に不確実なものならば、我々の情緒的行動はつねに先延ばしにされるでしょう」

「ほう。なるほど」ソクラテスは白髪交じりの汚い眉を左右非対称に上下させた。「ではきみにとっての――」

「僕にとっての情緒的行動とは」店中が僕たちふたりのためにつかの間、静寂し緊張するのがわかった。他の客はそれぞれの席で飲みつづけているが、僕たちのやり取りに耳を澄ましている。僕はそれがわかっていたからこそ、最後は毅然として言った。

「さっさと家に帰って妻と寝ることです」

 僕はソクラテスの満足げな表情を視界の片隅で見届け、ふたたび踵を返してすばやく歩き去った。店のドアを開けると真夏の夜風が匂った。ネオンがまぶしい。このネオンの途切れるところに僕の家はあり、僕はおそらくはそこで確実な死を迎えるのだろう。はやくうちに帰らなければならない。僕の70万時間がどのように流れてゆくのか見当もつかないが、今夜は悪くない金曜日の夜だったと、僕は今になって思った。〈終わり〉

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