【死ぬ気で恋愛してみないか?】太宰治の最期〜三鷹文学散歩・最終回
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JR三鷹駅周辺を、太宰治関連の事物を巡りながらぶらぶら歩きました。
雨模様の日曜日でした。午前9時からだいたい12時過ぎまで。
およそ11000歩の、三鷹で暮らした大文豪をめぐる、小さな記録です。
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禅林寺を出て、再び三鷹駅の方へと歩きだす。空は曇っているが、雨は止んでいる。今年は暖冬になるという予報をきいたが、暖かい日が続いたのは一昨日までだった。昨日の朝からは一転、肌寒い風がぴゅうぴゅう吹いている。今朝はたくさん歩いたおかげで、体は温まっていたが、風はひんやりしている。けっきょく傘はバックにしまったまま、私たちは最後の目的地を目指す。
そこは閑静な住宅街だった。40人弱とそこそこの大所帯で路地を行く。皆それぞれの会話を交わしている。その時点で10000歩近い歩数を数えていたから、「疲れた」ともらす子供もいたが、みんな表情は爽やかだ。私は歩くのが好きなので、これくらいはへっちゃらだ。
ところで、太宰治もしょっちゅう散歩をしたらしい。黒いマントを羽織って街を颯爽と歩く175センチの男は、当時はとてもよく目立った。ちなみに、三島由紀夫の身長は160センチくらい、谷崎潤一郎は155センチくらい。少し前の世代になると、夏目漱石や森鴎外は160センチほど。長身でハンサムな太宰治や、スポーツマンの坂口安吾は、そのキャラクターも含め、文壇のなかではひときわ衆目を集める存在だったのだろう。
駅から玉川上水沿いに続く「風の散歩道」の脇に、「玉鹿石(ぎょっかせき)」とよばれる石が置かれている。これは太宰治の故郷・津軽金木町から取り寄せた石である。
石のある近くの流れに、太宰治は身を投げた。
1948年6月13日、雨の降る夜のことだった。
愛人・山崎富栄と、お互いの腰を赤い紐で結び合って。
二人の遺体は1週間後に発見された。遺体はお互いの体を強く抱き合っていた。
草木に覆われた川面をのぞけば、かつてそこで大人の命が失われたとは思えない、ささやかな川のせせらぎが見える。二人が身を投げた夜は、降り続く雨のせいで流れが激しかった。雨模様の今朝は、いたって静かな川の流れだ。ひんやりした風が水面から上ってくる。緑が涼しく揺れている。
今回の入水、もしかすると太宰は本気で死ぬ気はなかったのかもしれない。むしろ富栄の方が、熱烈に彼を求めていた。
仮に未遂に終わったとしても、現実の心中をロマンチシズムで語るべきではない。『曽根崎心中』は創作物だ。私はこの結末を、太宰治という物語の理想的な終わり方だとは思えない。私は一ファンとして、彼の小説をもっとたくさん読みたかったし、自分や恋人の命くらい、もっと大事にしてほしかったと思う。彼の小説に救われた人が大勢いるというのに、当の本人がそれによって救われなかったということに、天才の宿命的な悲哀と不条理を感じる。
太宰治はその生涯で、何度も自死を試みた。処女作『晩年』は、「死のうと思っていた」ではじまる。なかなか死ねない人だった。女の人ばかりが先に死んだ。これだけの才能と人気に恵まれた人が、なぜこうも死ぬことばかりを考えていたのだろう。
11000歩の文学散歩は、太宰治最期の地で終わる。
文豪は、この三鷹の地で長く住み、働き、そして永遠に去っていった。なぜか。
かつて小さな田舎町だったこの場所で、愛し、愛され、絶望した。
なぜこの町を、太宰治は選んだのだろう。
文学は私たちに、心地よい「正解」ではなく、深い「謎」をくれる。「謎」を愛する人は絶えない。文学の営みは終わらないだろう。
太宰治は、やっぱり変な人だ。キザでユーモラスで、圧倒的に天才だが、同時に、やはり徹底的に人間らしい。
人間・太宰治の、弱さや未熟さを、私たちはこれからも欲し続けるだろう。誰もが「人間失格」と自分自身に言い聞かせたりもしながら、曇天の空の下、背中を丸めて歩き続ける。
(終わり)
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