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【短編小説】 『姉妹』

 私のふたりの妹がめずらしく喧嘩をしたのは、下の真知子が成人式を間近にひかえた頃。年が明け、寒さは厳しさを増したように感じたが、空は洗われたように鮮やかに澄みわたって、気持ちよく晴れた日が幾日もつづいていた。

 振袖を着られることを心待ちにしていた真知子は、娘時代にかえったように日々、元気溌剌としていた。ところが、我が家の女たち――というよりほとんどの一般的な女たち――の精神生活はそう単純なものではない。プラスの気分に振れた感情の振り子が、なにかのはずみでマイナス方向に振れるとき、その振れ幅は決まって同じだけ大きいもので、その日真知子は、マイナスのほうに大きく振り子を揺り戻していたわけだ。

 三歳年上の紗也子に、真知子が噛みついたのは、私の仕事がはやく終わって、年始早々、母を含めた家族四人で食卓を囲むことになった、夕食の時間。一家団欒の時間が、正月の休みと立てつづけにこうも確保できるというのは、残業の多い私にとっては貴重なことであった。

「これ、むつごいわ」と真知子が残り物のおせち料理をつまみながら言った。

「真知、むつごい、いうて、それ方言なん、知っとる?」と紗也子が妹をからかうように言った。「あっちでは通じんで。あっちいうて、東京な。東京では脂っこいとか、味付けがしつこい、とか言わな、真知の言うとること、通じんわ」

 紗也子は地元の国立大学を卒業後、地元の銀行に就職したが、学生時代から三年間付き合い、近頃は結婚まで考えはじめた佑真と、殊に大学時代は、東京に遊びにゆくことも多かった。

「お姉ちゃん、佑真さんと付き合いはじめて、がいに垢抜けてしもうて、困るわ。都会の絵の具に染まる、いうやつやな」と真知子が言った。

「真知、『木綿のハンカチーフ』みたいなこと言うなあ」と私がすかさず言うと、母が、

「こうちゃん、それ、なんやっけ」

 すると今度は紗也子が、
「太田裕美の歌や。真知は、いちいち引用が古いんやわ。あんたいくつな」

「二十歳なったけん、振袖着れるんや」と真知子は愉快そうに応えたが、すぐに顔色を変えて、「ほんだけど、これは、ほんまにむつごいわ。美味しくない」

 私と真知子の取り皿には、同じ鮭の昆布巻きが半分齧ったままで置かれていた。

 母が、「それ、ママと紗也がつくったん、違うで。佑真さんとこのお母さんがお裾分けしてくれたんや」

「佑真くんとこの味か」と私。「まあ、たしかにちょっと、濃いな」

「ほら!お兄ちゃんも分かってくれた。佑真さんとこの味付けは、私前から思いよったんやけど、正直、苦手やわ」と真知子は急激に活気づいた。

 紗也子はあからさまに不機嫌な顔をしたが、それにも動じず、真知子はつづける。

「だいたい、お姉ちゃん、佑真さんに気に入られよう思うて、ちょっと自己欺瞞してない?」

 私は場の雰囲気が荒れはじめるのを察して、「真知、自己欺瞞やいうて、難しげな言葉、よう知っとったなあ」

「そら知っとるで。毎日会う、お姉ちゃんの顔に書いとんやけん」

「真知。お母さんはそうは思わんで。あんた言いすぎや」

「そう?だってお姉ちゃん、もっとサバサバしとる女の子ちゃうかった?なんか最近なよなよしてしもて、はっきりもの言わんし、そのかわり、東京ではああや、こうや、言うてくるんも好かんし!」

「サバサバと東京に染まるんは別問題やろ」と私は食卓に和やかさを回復させようと、努めて明るく言った。

 すると紗也子が、「真知、あんたお姉ちゃんにそんなん言うてくるときは、だいたい自分がそうなっとるいうときなんや」と、存外冷静に言った。

「自分がそうなっとる?」

「そうや。あんたいま、恋愛で悩んどるとかちゃうん?――どうせ変な男につかまって、またしんどい思いしとんやろ?」

 ――その指摘が当たっているかどうかはわからないが、その言葉の冷静さにおいて、紗也子の言い分には説得力があったし、娘時代と同じように声を荒げて姉妹喧嘩に乗りださない紗也子の態度は、妹よりも先に大人になった彼女の人間的な成長を私に感じさせた。

「私やって、別に佑真さんとこの料理、おいしいや言うてないで。でも、そんな、むつごいや、わざわざ言わんでええやないの。せっかく分けてくれたのに」

「だってほんまにむつごいんやのに」

「ほんまのことやけん、言わんでええんや」

「お姉ちゃんの言う通りや」といたく感心したような声色ではあるが、それがあまり表情には出ない母。「ほんで真知、また変な男につかまったん?」

「お母さんまで!」

 私はこのときようやく、この場で精神的な均衡を崩していたのが真知子ただ一人であったことに気が付くのだが、彼女に対して落ち着いて対処した紗也子――私の二歳下――に対して、どうしてか、ああ、この子はいまの人と本当に結婚するのかもしれないな、というぼんやりとした予感も同時に覚え、小さな胸騒ぎを起こしていたのである。

「真知、兄ちゃん、真知の前撮りの写真、やっと見せてもろうたけど、がいにけっこいやん」と私が真知子に対して精一杯のやさしさをこめて言うと、

「兄ちゃん、〈がいにけっこい〉やいうて、ばりばりの方言で。絶対に他のとこで通じんで!」と、紗也子は彼女特有の快活な高い笑い声をたてて言った。……


 夕食の時間は、むすっとして黙り込んでいかにも不味そうに鮭の昆布巻きを食べる真知子に皆が気を使いつつ、私にとってはやや不本意な静けさをもって過ぎていった。――

        *

 夜、縁側で姉妹が窮屈に肩を並べて座ってなにやら話しているようなので、気になって私が近づくと、真知子が紗也子に足の爪を切ってもらっているところだった。

「私の黄色い振袖、お姉ちゃん、うらやましいやろ?」

「うん。あれは、ええの選んだなあ」……

 そこらじゅうに散らばってきらきら光る爪の屑を、スカートの膝をつきながら掌の中に拾い集めている紗也子。そしてその様子を柔らかなまなざしで、けれど特別な感謝の情などこもっていない、姉妹同士の投げ交わす視線のありふれた自然な温度感で見守る真知子。

 私はふたりになにも声を掛けず、その場をあとにした。

 ささいなことで喧嘩はしても、ふたりの間には女同士のつよい絆があって、取り返しのつかない仲違いなど、きっとこの姉妹には生涯あり得ないのだろうと、あらためて私は思い知らされたような気がした。

〈終わり〉

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