サンデーショートストーリー

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【短編小説】『大いなる一瞬のための70万時間』

「そこのお兄さん。お兄さん、きみだよ、きみきみ」

 帰ろうとしたところを呼び止められた。しわがれてはいるが生き生きとしていてやけに明瞭な声が背後に響いた。僕はすこし迷ったが、仕方なく踵を返して、テーブル席に不安定に腰掛ける老人を振り返った。

「きみは、〝大いなる一瞬のための70万時間〟について、どう考える?」

 ――僕ははじめて見るその老人を、瞬時に「ソクラテス」と命名した。おそらくは哲学に

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【短編小説】 『兎』

   二

 職員室を出たのは午後6時半をすこし過ぎた頃だった。そのとき、私の身体の隅々までどこを探しても、匡彦を受け入れる「余白」というべきものは、正直なところ、もう残っていなかった。それほどに私は心身ともに疲れきっていたのだ。

 私はかれとの約束を果たす義務感だけのために、張り詰めた、重い体を引きずるようにして、ふだん使っている門とは正反対の方向にある、学校の正門を目指して歩いた。私より一足

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11

【小説】 『兎』

    1.

 飼育委員の男の子が二人そろって学校を休んだ。おかげで、週一度の兎小屋の清掃を、私がやることになった。

 いつもなら、床中に散らばった糞を一か所に、苦笑まじりに集めている子供の様子を、要所要所で適当に声を掛けながら眺めていればよいのだが、今日はそれを私自身がやらなければならない。

 五年二組の担任としての、責任ある、体を張った仕事。クラスの子供たちがみな下校し終えないうちから、

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【小説】 『明けない夜はないという使い古された常套句を今、』

  明けない夜はないという、使い古された常套句を今、僕は自分自身に言い聞かせている。

  それはまるで明けない夜のような、完全な夜のことだった。

  窓越しの冴えた月明かりのほかには暗黒が満ちあふれた夜、屋根の上に神経質に張り詰めている、低い天井の下の僕をとらえて放さない悪質な夜のこと。

  それでも僕は知っていた。明けない夜はないという、ありふれた大勢の人たちが、ありふれた祈りの言葉のよう

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【子どものためのお話】 『くるみパン』

 はま野さんが学校を休んだ。

 ぼくのとなりのせきはしいんとしていた。でも、それはいつもといっしょだ。はま野さんは学校に来ても、しいんとしている。

 はま野さんが、じゅぎょう中や休み時間に、わらったり、おこったりしているのをぼくはほとんど見たことがない。はま野さんはふしぎな人だ。ぼくのクラスにはま野さんのことをきらいな人はいないけれど、なかよしな人もいない。ぼくも、みんなも、はま野さんのことを

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13

【小説】 『限りなく個人的なimageの話』

 ここに書き記すのは、限りなく個人的なimageについての話。僕自身にとってそれをいま書き残しておくことには、限りなく個人的な――けれどけっして小さくはない――意味があると思う。それはたとえば僕の将来において、そのimageが再び前触れもなくやってきたときに、僕自身がそれに対していくらか自覚的でありたいという、限りなく個人的な願望によるものだ。

 僕がそのimageに対していくらか自覚的でありた

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8

【短編小説】 『姉妹』

 私のふたりの妹がめずらしく喧嘩をしたのは、下の真知子が成人式を間近にひかえた頃。年が明け、寒さは厳しさを増したように感じたが、空は洗われたように鮮やかに澄みわたって、気持ちよく晴れた日が幾日もつづいていた。

 振袖を着られることを心待ちにしていた真知子は、娘時代にかえったように日々、元気溌剌としていた。ところが、我が家の女たち――というよりほとんどの一般的な女たち――の精神生活はそう単純なもの

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15

【短編小説】 『車輪の詩』

 二月の凍るような空気を顔と胸いっぱいに受けて、僕たちは川沿いのゆるやかな坂道を疾走していた。

 栞里は眠ったように静かに、それでいて歌うように朗らかに、僕のけっして広くはない背中にそれよりもずっと小さい躰をあずけ、伸ばした両脚の全体をつかって冷たい風の鋭い流れをおもしろがっていた。心地よい温度を保った健やかな柔さが僕の背にはもうすっかり馴染んでいて、それは僕の気分をすこしばかり高揚させ、また自

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【小説】 『2020年の羅生門 〈逃亡、そして完結編〉』

「お爺さん、偽善者はあなただ」

「なんだと」

 老人は錆びついた眼球がぼろぼろとこぼれ落ちそうなほどに痛々しく目を見開いた。その表情は怒っているというよりも唖然としていた。

「わたしの仲間には、いや、この工事の計画から実行までのあらゆる工程に関わる者のなかには、日本の未来を真剣に考えて、そのために必死になって仕事に取り組んでいる者が、何人もいます。このわたしだって、気持ちは同じです」

 老

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【短編小説】 『深秋』

 はげしい時雨の音で目覚めた雪子は、灯りの点いたままになっていた頭の上の読書灯を消そうと右腕を伸ばすと、思いがけない冷気に触れて、冬の到来を感じた。

 昨日の日中まで、半袖で過ごせるくらいのぽかぽかした陽気だっただけに、今朝の寒さが文字どおり身に染みて、雪子は、今年もつらい季節がやってきたんだと、眠気がまさっていた意識をにわかに確かにして心から嘆息した。

 灯りの袂のスイッチを操作して、すば

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