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アイドル声優とは何か~あの事件から振り返る~

神田沙也加の演じる江ノ島盾子を初めて見たとき、それが彼女を生で見る最後になるとは思わなかった。キャラクターへの理解。原作へのリスペクト。演じるではなくそのものであること。演じる行為は本物に似せていく行為といえるが、神田沙也加の場合は本物だった。

彼女を「アナと雪の女王」で、音楽活動で、松田聖子の娘で、舞台女優で、「ダンガンロンパ」で、「ソードアート・オンライン」で、何かしらの接点で出会うにしても、本物だった。

彼女の死去は、一昨年に亡くなった藤原啓治さんのような、代替が存在しない、後任がいないものとして認識しており、とにかくショックだった。

ショックを受けたことはもう一つある。ノクチルの記事を書く程度にのめり込んでいたアイドルマスターシャイニーカラーズに関して、すっかり熱が冷めてしまったのだ。きっかけは三峰結華。一連のスキャンダルにおける各所の対応は、エンタメを届ける立場として理解できるものでありながら、感情的にはモヤモヤしたものであった。

モヤモヤの原因は、スキャンダル発覚から始まった三峰結華のあまりにも品のない二次創作イラストが象徴的だ。調べればすぐに出てきてしまうものなので書いてしまうが、いわゆるNTR案件であることがわざわいして、pixivがその手の悪意ある投稿にまみれた。

嫌なら見なければ……のいつもの返しは今回はちょっと違う。私としては、キャストのスキャンダルであり三峰結華というキャラクターのスキャンダルではないにも関わらず、キャラクターと同一視させる売り方をしていたが故に、三峰結華=キャストの構図が生まれてしまったこと、伴ってNTRイラストで溢れかえってしまったことに、二次元キャラクターを愛する者として、足が止まってしまったのだ。これは、明らかなる倒錯ではないかと。

キャスト=キャラクターではない

本来のキャストとキャラクターの関係性はどういうものだろうか。

例えば、「うる星やつら」について新シリーズが発表されるにあたりキャストが変更になった。馴染み深い平野文が数年前までCMに登場するラムちゃんの声を担当していたが、上坂すみれに変更となった。「月姫」ではアルクェイド役としてメルブラやカニファンなどで担当した柚木涼香から長谷川育美となった。「マブラヴ」では名演説と謳われるラダビノット司令役の若本規夫を除いて全てのキャストが変更となった。

これらの事例は、長期展開を作品が前提とした際に、年齢的な問題もさることながら、若手キャストを起用することで宣伝的な効果も狙ったものである。そこにあるのは、キャラクターとキャストがイコールでは結ばれない関係であり、時代や状況に合わせて柔軟だ。主体は作品そのものにあるといえる。

たしかにキャストというのは作品にあってはならないのもので、印象的で、キャラクターの要素として重要なものである。一方で、キャスト=キャラクターなのかといえば、それは明確にNOである。中にはキャストとキャラクターを同一視するヲタクがいるのも理解しているが、私はNOだと言う。

キャラクターを構成する要素は、声だけでなくイラストがまずあり、キャラクターの性格は作家の手によるものである。加えて、漫画やライトノベルのような単一の原作者がいないゲームなどの場合は、シナリオライター、それも複数の人間が関わってキャラクターが生まれている。細かいところを言えば、分業でイラストを作っている形式、例えば色彩だけ別の人が担当していれば色彩の人もキャラクターを作った人であり、そのキャラクターを象徴するエピソードが宣伝やタイアップで出てきたネタだとしたら宣伝担当者であってもキャラクターを作った人だと思う。

複数の人が携わって生まれたキャラクター像をキャストが演じるという状態であり、キャストとキャラクターの関係性はここが終点になる。キャラクターとキャストは同じ性格ではなく、あくまで演じているのである。

しかし、キャストはキャラクターと同一視される

一方で、キャストをアイドル的に売り出す動きが当たり前の現在、製作者サイドが意図的にキャストとキャラクターを同一視させることでヒットを狙う構図が存在する。代表的なものは「アイドルマスター」や「ラブライブ」、「ウマ娘」といったライブを前提にビジネスを構築している作品である。

これらの作品では、キャスト自身が、キャラクターのコスプレをして、ライブを行い、朗読劇や寸劇などでキャラクターとしても演じるという演出がとられており、ファン自身も自分の推しキャラクターと最も近づける瞬間を楽しめるものである。

私自身、シャニマスのMUSIC DAWNは未だにシャニマスが最も輝いていた瞬間だと思うし、現地参戦の2ndライブでのとおまど演じる和久井・土屋両名は印象的に残っている。

だが、それ故に、三峰の件はキャストの芸能界引退という形で幕を下ろした。スキャンダルについてシャニマスも事務所も触れていないため、すべては憶測になってしまうが、スキャンダルがきっかけになったのは明らかである。

他方、キャストのスキャンダルは特別珍しくはなく、過去に不倫や浮気が発覚した事例は多々ある。しかしながら、彼ら彼女らは少なくとも引退という状況に陥ってはいない(薬物など犯罪行為は除く)

あくまでも一側面であるが、三峰の場合、キャスト自身がキャストとして認識されるのではなく、三峰として認識されていたことが引退に繋がってしまったことは一つの見方としてはどうしても出てきてしまうのではないだろうか。

そこにあるのは、アイマス声優・アイマスガールズ・アイドル声優といった、キャストとしての役割ではなく、キャラクター自身との同一視から生まれてしまった世間からの見方がある。

スキャンダルの内容があまりにもアイドルとして築かれたイメージとかけ離れたものであり、さらにはファンを馬鹿にすると捉えられる表現もあったことから、この手の話のなかでは思った以上に擁護の声少なく、キャスト変更の声大きかったように主観としては捉えている。

現実は、一つの役を取るのは難しく、アイマスのキャラクターへの抜擢は大きな役である。それをステップとして、様々な作品で活躍するキャストがいる一方で、一つの役しかもらえないままに何年も経っている人がいるのも事実である。

そこにおいて、まだ三峰としての印象で築かれたキャスト像がキャラクターと同一視されるのは致し方ないことなのは理解する。しかし、このキャストとキャラクターの同一視の結果起きた悲劇にやるせない気持ちが生まれるのである。

ある瞬間、キャラクターとキャストが重なる瞬間がある。
とても解像度が高くなって、あたかもキャスト自身がキャラクターに見える瞬間がある。その時を楽しむことはとても開放的で恍惚して、それでいて享楽的な行為だ。
その楽しみを捨てることはエンタメの楽しみ方ではないとも思う。私はキャラクター=キャスト=ファンである自分が、確かに繋がった瞬間の幸せな気持ちを否定しない。それはエンタメの最も大切な部分でもあるからだ。

しかしながらその特異な空間が終わり、日常に立ち戻った時に、一息をいれて欲しい。実在しない空想の世界の中にエンタメがあったのだと。実在する世界ではキャストとキャラクターは違うものであると。折り合いを付けることは、コンテンツへの依存を防ぐためにファンとして持つべき意識であると私は考える。

私はアイドルコンテンツ、というよりは非実在の二次元キャラクターを推して尊ぶことを好きである一方、現実世界との境界を認識しないレベルで依存し続けることは誤りであると思う。

アイドル声優をどう消費すべきか

前述の通り、キャストはキャラクターを構成する一部分であるため、ここを同一視することは、キャスト以外のキャラクターを作り上げてきた人々を捨て去ることであるし、キャラクターに彩られてバイアスのかかった状態でみるキャスト自身へ誤った見方になることを危惧する。

仕事柄、アイドルを演じる中の人に会う機会もあるが、やはり普段の配信やライブでのパフォーマンスとは違う印象の方もいて、あんなに堂々とカリスマ的な魅力を放っているのに、実は「とても自信がなくて、静かで謙虚で、けれどコツコツ努力している人」とか、私自身が持っていたバイアスを反省する機会も珍しくない。

冒頭の話に戻る。
神田沙也加を意識しながらも、たしかに江ノ島盾子であることを受け入れられる存在も確かにある。キャストとキャラクターの関係を越えた何かが。もし神田沙也加が同様のスキャンダルを抱えたとしたら、どんな反応になったのだろうか。(不公平な前提を承知だが、少なくとも神田沙也加がファンを馬鹿にする姿が全く想像がつかないのであくまで不倫スキャンダルとして)

申し訳ないが、おそらくは神田沙也加は神田沙也加でキャラクターと切り離して考えるし、一方で江ノ島盾子を演じるのは神田沙也加しかいないとも思ってしまう自分がいる。そして、芸能界引退ということにもならないだろう。

神田沙也加は個人だったように思う。彼女は神田沙也加でありながら、演じる様々な役のキャラクターそのものであった。芝居、歌唱、プロ意識、立ち振舞、そして一つの役ではなく複数の役を演じることで築かれていった神田沙也加という役者としての認識。松田聖子の娘ではなく、神田沙也加。彼女自身の足で立っていたこと。高すぎる母の存在を自らの力で超える・・・いや、母の登った山とは別の山、あるいは海に潜って、違う存在であると示したこと。彼女の魅力はそこにあった。

三峰の場合は違ったのかもしれない。三峰とキャストとはそれ以外ではなく、キャスト=キャラクターの関係が不幸にも固まってしまった。認識されるのは三峰というキャラクターあるいは演じているキャスト。しかし、それ以外には出ることのない状況。

ようやくタイトルの問いに戻る。アイドル声優とは何か。

私は「アイドル売出しをしているキャラクターとキャスト自身が同一視して消費され、かつそのキャラクター以外に消費される別のキャラクターが存在しない人」がアイドル声優なのだと考える。

それは、キャストとしての大切で大きな一歩であり、同時に呪縛でもある。

私はとても厳しい競争に生きるキャストたちを思うと、キャストとキャラクターを別のものとして捉え、消費することが、キャストがさらなる夢を叶えて、エンタメとして人々を楽しませるために必要な、ファンとしての行為に感じるのだ。

少なくとも、流出・密告という被害者としての側面を持った、あの一件に対する手向けは、三峰という存在とキャストは別の存在であるとしっかり捉えること。今や芸能人ではなくなった彼女を、社会が受け入れるために必要な姿勢なのではないだろうか。


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