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秋吉台概論

秋吉台は3億年の遊び場

 3億年前に赤道近くの火山島周辺にできた浅い海で生きていたフズリナという有孔虫は、炭酸ガスと海水中のカルシウムを固定化した現在の貝類と同じような殻を持っていました。
 長年にわたるフズリナの死骸は数百メートルも堆積し、巨大な炭酸カルシウムの一枚岩の石灰石が形成されました。
 この一枚岩が太平洋プレートとして北上して壊れながらユーラシアプレートの日本列島に折り畳まれ、めり込んで形成された破片の一つが秋吉台です。

巨大な破片

 破片とはいえ埋没した範囲を含むと山手線の内側の面積よりはるかに広い93km2(地表面積はちょっと小さく54km2)で最高峰420メートルなのに石灰石の最大厚さは折りたたまれ1000メートルもあります。
 他の破片も日本列島に広く分布し「日本で自給できる鉱物は石灰石だけ」と自嘲されるほどです。
 日本で鉱物として大規模開発されたのは1880年代以降で秋吉台も西の伊佐地区は天然記念物ではなく鉱山として処理されています。

台上は穴だらけ

 500万年ほど前からこの石灰巨岩は雨水により浸食されドリーネや鍾乳洞が形成されました。
 鍾乳洞の数はリスト化されたものだけで500か所近く、複雑な地下構造は部分的にしか解明されていません。
 雨水はドリーネから漏斗のように鍾乳洞に流し込むため秋吉台上には川がなく、一部のドリーネの底のみ耕作されています。

観光洞なら入られる

 500か所近い鍾乳洞のうち秋芳洞、景清洞、大正洞は観光洞で中に入れます。
 秋芳洞は古くから「滝穴」と呼ばれ大正時代に皇太子(後の昭和天皇)が行啓の際に「秋芳洞」と命名しましたが読み方は伝えなかったため長く「しゅうほうどう」と読まれていましたが正しくは「あきよしどう」で近年は修正が進んでいます。
 大正洞は「牛隠しの穴」として知られていましたが大正時代に奥に3次元的な深い穴が確認され現在の呼称になっています。
 景清洞は「かげきよあな」と呼んでいたものが「かげきよどう」と変わっています。
 景清洞の実体は上流の三角田洞から用水トンネルのように抜けた穴で、昔は干ばつで洞内の水がなくなると通り抜けてる雨乞いの行があったといわれます。

秋吉台人文史

 灌漑ができず水田が作れない秋吉台は太古から森林で、現在のような景色は東南の長登の銅山の開発で燃料用に木が切り出された以降と考えられ、室町時代から草原化が始まり、江戸時代に入ると西まで草原化が進み、毎年山焼きを行うことで緑肥、飼料、屋根材として利用されていました。
 明治以降は陸軍の演習場になり現在も薬莢が発見されます。
 第二次世界大戦後に接収され1955年に米軍から空爆演習地の打診があり県は拒否し国定公園指定を進め、同時に1957年に接収解除に成功しています。
 1964年に特別天然記念物、特異な地下水系により2005年にラムサール条約登録、2015年に日本ジオパークに指定されています。

アクティビティ

2020年の新しい動きとしてアクティビティの高度化があげられます。
 秋吉台アドベンチャーツアーズは観光洞以外の鍾乳洞を探検するもので参加者の嗜好や体力に合わせてカスタムすることも可能です。
 ガイドは秋吉台をホームに世界の鍾乳洞を探検したケービングのスペシャリストです。
 山のガイドと違いケービングは初めから電波が入らないし真っ暗で立体構造なのでスマホの地図がききません。
 感動的な風景も照明があってこそでその感動を切り取る写真の撮影作法も独特なものになります。
 地底湖ツアーは非現実的な空間に圧倒されます。
 セグウェイツアーin秋吉台は広い秋吉台を効率よく回るものです。
 国定公園である秋吉台は美祢市の管理下ですが許可があれば軽車両以上でも乗り入れることができセグウェイツアーはこの許可を持っています。

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