教科書

高校の時、現代文の授業がすきだった。読みあわせをする前の段落分けを無視して、その話の最後まで先に読み進めることをよくやっていた。話の結末が気になって仕方なかった。読んでいる間は不思議と音があまり聞こえなくなった。現文の先生ののびやかで、しかし芯のある通る声も、まるで水中にいるみたいに遠くに聞こえた。

先生は隣のクラスの担任で、自分たちのクラスの担任より、よっぽど皆に好かれていた。理由は大したことなくって、自分のクラスの担任は注意をするときやや大袈裟に(スカート折っちゃいけないって言ってるでしょ!!)とか(リボンちゃんと付けなさい!!)とか甲高い声を響かせる人で、みんな声が聞こえる度に「また叫んでるよ…」と苦笑しながら目配せをするのだった。担任が言っているのは校則を守りなさいということで、金切り声を差し引けば至極真っ当なことだった。ただ小うるさく言われるのが嫌な年頃だったのだ。それに対して現文の先生は、校則違反をちらりと横目で見たあと、「リボンちゃんと締めてくださいね」とあの通る声で一言いうだけだった。黒髪を肩にかかるくらいまで伸ばし、服装にもやや黒が多めなその先生に言われるとやけに説得力があった。その後リボンがきちんと締められようが締められまいが何も言わずに授業が始まることも、生徒たちの支持を集めていた。(口うるさく言われることが一番嫌な年頃だったのだ。)

前回の授業でひとつの話が終わり、今日から新しい単元に移るという日だった。私は例に漏れず先生の声を遠くに聞きながらその話の続きを追っていた。出席番号順に並べられた席で、教室のど真ん中一番前、つまり教卓の真ん前で頭の上を通りすぎる声のすべてを無視して結末を求めていた。我ながらいい度胸だったと思う。気づくと段落分けは終わっていて、その日の日にちと同じ出席番号の生徒があてられ、読みあわせが始まっていた。読み終わったその生徒の声で、一段落目と二段落目の境目をはじめて知るのだった。

先生は意に介してないように見えた。無駄話をしている生徒がいればあの通る声で一言「はい、話をしない」と言ったし、居眠りをしている生徒がいれば、教科書を持って読みあわせを聞きながら、寝ている生徒の机まで行って肩を2、3回軽くたたいた。ただ、それだけだった。教卓の真ん前に居たのだから話を聞いていないことなんて明白だったと思うけど、一度も咎められたことはなかった。それで、私は咎められないのをいいことに、新しい単元が始まるごとに授業を聞くことを放棄するのだった。

学期の終わりの授業だったのか卒業前の最後の授業だったのか忘れてしまったけど、たしか教科書はもう開いてなくて、先生の話を聞く時間があった。少し高めに設定された教卓を一番前の席から見上げていた。そこまでの振り返りをするような時間だったと思う。

「文章が苦手な人もいるでしょう。でもストーリーがはこばれていくことの奥深さが少しでも伝わっていたらこれ以上嬉しいことはありません。たとえば教科書の先が気になって仕方ないような、夢中になって先を読み進めてしまうような、そんな風に文章を好きになって行ってください」

その瞬間バチッと目があった。そして先生はすこし微笑んだ。ハッとした。私は自分の中にあったすこしの背徳感に気づいた。それと同時に何倍もの高揚感に包まれていた。先生はやっぱり気づいていて、それでいて話を聞いていない生徒を温かく見守っていてくれていたのだ。嬉しかった。それは直接ことばを交わさないまでも、確実に私を認めてくれたことばだった。あの瞬間、私は文章のことがすきになった。なんとなくストーリーが気になって読み進めていただけだったけど、確実に「文章がすきだ」と思えた出来事だった。

今でも時々先生のすこし不器用な微笑みを思い出す。あんなに夢中になって読み進めていた教科書はとうに捨ててしまった。気に入った文章がいくつかあったはずだったけど、もうタイトルも作者も忘れてしまった。もう一度教科書が読みたい。

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