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Tradition テューリンガーに見る伝統の失われ方。

ゴードンに御馳走になった『本来のチューリンガー』の余韻に浸りながらその日は終わった。

ゴードンの遊び部屋。

『レシピ知りたい?』
とゴードンに言われ笑みがこぼれたのには訳がある。
自分の作っている“テューリンガー”と同じだったからである。

『たぶん同じだと思うよ』
ゴードンが示したレシピはやはり同じだったのだ。

テューリンガーブラートヴルストと言えば、超有名なソーセージだが世間で流通しているものは“原形”ではない。つまり伝承された伝統そのものではない。

ゴードンは父グスタフからこのレシピを伝承された。
グスタフはテューリンガーでマイスターになったのだが、そのマイスターで得た完全にオリジナルレシピ、という事で、ゴードン曰く
『オリジナルに勝るものはない』

ただ現代に流通しているものは絹引き生地に僅かに粗挽き生地が混ざったものが主流。

私が日本でドイツ人に販売した時も
『テューリンガーは粗挽きだ!だけど以前は全く違った絹引きの生地のソーセージが来てた。やっと満足いくテューリンガーに出会えたよ!』

そう、ここでも、本物を知っている人からすれば、このように喜ばれるのだが、後者の絹引き生地が現代では主流になっているので、偽物が本物になりうる、という残念な現象が起こってしまうのである。



明日は週末で午前中だけお店を営業する。そんなこともあり、多少気を遣いながら店舗向かいのゴードンたちの住まいに案内された。

バイエルン色に完全に染まっている私には雑多な感じが如何にも首都ベルリンから近いからだろうか?どこか都会的に感じられた。天井も高く広々として居心地はまるで一軒家の様だ。

天井の高いリビングにはロフトがあり、来客用の寝室になっている。ロフトのほぼ全面を覆うエアーベット。すでに天井すれすれの為、這いつくばって進む。


『伝統』という言葉がよぎって改めてそれについて深く考えさせられた私だったのだが、先程、それぞれの部屋を案内されている間の出来事に、そんなこともすっかり忘れていた。


トイレとシャワールームが一緒になっているバスルームで、バスタブはあるものの何故かシャワールームが別である場合が多い。ゴードンの家もまた同じだった。バスタブは余程のことがない限り使わない。欧米を想像した場合、安易にイメージできると思うのだが、多くの人のお風呂とはシャワーのみで完結する。

そこで、その部屋の鍵が壊れているのに気付く。

『トイレに入ったときどうしよう。。。?』

どんなドイツ語講座でもこのシーンを網羅したものは無いだろう。

日本なら何とでも言えそうな気がする。笑いに変えることも出来るだろうし、簡単な言葉一つで解決できそうだが。。。

ドイツ語でそれを言うのは簡単だが、日常でドイツ人ならこの場合、どのように切り抜けるのか?非常に興味があった。それが『大』なら尚更だと思うのである!


『誰か来たらどうするの?』

どういう切り返しをするのか興味津々で聞いてみた。

『Morgen!(モルゲン)っていえばいいよ!』

にやりと言ったゴードンの顔がドヤ顔に見えた。そこにドイツ人的『ウィットに富んだ言葉』を感じ、なるほどと納得したのである。Guten Morgen グーテンモルゲンが『おはようございます』なら短縮されたモルゲンはおはよう、という意味で日常的には目上の人も関係なく使われるという感覚で良い。初対面なら多少気にしてグーテンモルゲンと言った方が良いのかもしれない位だ。

ゴロっとエアーベットに横になったが、這って辿り着いただけのことはあり天井と睨めっこ状態だ。

だが、とても居心地がいい。

やけにふかふかで、空気が6割程度しか入っていないため、体が深く沈みこむ。

居心地の良さは、数分。

この柔らかさでは、腰が崩壊してしまう!と危機感を覚えたが時すでに遅し。。。

ゴードンもみんな就寝してしまった。。。

明日はまだ仕事があるため、起こすわけにはいかない。

ゴソゴソゴソゴソ安定する場所を探すのだが、そう簡単に安息の地は見つからない。そもそもそんなものは無いだろう。

非常に長い時間に感じられた。しかし実際は30分も経っていなかったのかもしれない。窓から入る月明りで照らされた下のリビングに人が入ってくるのが分かった。

『タケ、大丈夫か寝れてるか?』

昼間にいい加減タケと呼んでくれ、と念を押したのが功を奏したか、すんなりタケと呼ぶゴードンだった。

脂汗をかきながら

『腰が痛い。。。』

と伝えると、

『早く言ってよ、となりにいるから何かあったら起こしてよ』

夜な夜な男二人がエアーベットに空気を入れる画も『ウィットに富んだ』と言えるだろうか。

しっかり空気を入れてもらい無事就寝。

『伝統』の記憶などこのように、ものの見事に忘れ去られるのだ。

ゴードン父のマイスター証書。旧東ドイツ製。



心地よい朝の光と鳥のさえずりに目を覚ます。今日も快晴。

ベットはまたほんの少し、沈んでいた。

ゴードンの嫁カトリンは既に一仕事終え、私とゴードンの朝食を用意してくれていた。

寝起きのゴードンが現われ、二人で朝食をとる。

広いとは言えないキッチンは何故かゲミュートリッヒ(心地よい)なのだ。外の景色を見ながら何とも言えない優雅な気分に浸る。

流石は旧東ドイツと嬉しくなった。伝統のレバーペーストや血のソーセージが並ぶ。

ツンゲンヴルストやベルリーナーと略されることも多いが正式にはベルリーナー ツンゲンヴルスト。

塩漬けした豚タンを豚血と豚皮で固めものでスライスして食べる。私も好きな加工品のひとつだが、数年前から手に入らなくなってしまったため作れないでいる。

安心感の美味しさにまた嬉しくなる。安心感とは昨日のチューリンガーにも言えることだが、伝統的な昔ながらの味。

それは今では個人店の肉屋ですら忘れてしまった味である。経済の成長と共に食品が産業という大きな渦に飲み込まれて、見た目は『伝統的なそれ』なのだが中身がまるで違う。

それは日持ちさせる、より色持ちを良くさせる、味をより際立たせる、などと言った目的を果たすために作られたまさに大きな産業の産物でしかなく『本物』ではない。

それに負けないように個人店も、同じ道を選択してしまった。

消費者が、日持ちのするもの、色合いがさらにはっきりしたものを『綺麗』とか『美味しそう』と感じてしまったからだ。

選ばれなければ廃業するしかない。たとえそれが『正しい伝統』であっても。

フォルさんがビオの加工品を指さしいった事を思い出した。

『これでさえ嘘なんだよ』

ベルリン近郊の小さな町バールートにそれを守る職人がいる。

まるで時が止まったかのような肉屋。そんなこと誰が知っているのだろうか。

そうだ

百聞は一見に如かず、百見は一験に如かず

その話をしたかったのではないか。

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