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黙祷〜人間的であるために〜

昨日主催したオンラインの対話イベントで、黙祷をした。
コロナで亡くなった人々に対して。

対話イベントというのは、死について話す、デスカフェというものだ。今回で主催側に回るのは3回目になる。当初は実際に集まった形で実施することを考えていたのだが、コロナの影響でオンラインでの開催することとなった。

デスカフェで一番シンプルなものは簡単なルールだけ伝えられて(批判しない、アドバイスしないなど)自由に話すというものだけれど、自分がやっているのはある程度時間で区切りながら進行していくものだ。大枠としてのプログラムは作成しているタイプのものになる。全体の時間としては約2時間のものとなった。

その最初のイントロダクションのところの時間を少し黙祷に割くことになった。主催側は2人いて、今回はもう1人にほとんどやってもらっておんぶに抱っこ状態だったのだけれど、黙祷のところだけは出しゃばらせてもらうことに。

黙祷といってもとてもシンプルなもので、「コロナで亡くなった人のことを想う」程度で伝えた。黙祷の時間は1分程度。ごくごくわずかな時間だ。この時間を作ろうと言った時は思いつきではあったけれど、当日は特別な思いがあった。それは、コロナの犠牲者の数の報道を聞いたことがきっかけだった。

デスカフェの前日、4月11日朝、世界中で10万人以上が死亡しているという報道があった。コロナは当初「風邪みたいなもの」と言われていたのに、膨大な数の被害者を出すことになってしまった。アメリカもインフルエンザの方がよほど猛威を振るっているという話であったのが、とうに過去の話となったことにも想いが向かった。

テレビやネットを見ると、指数関数的に感染者が増えていくグラフをいくつも目に入る。気も滅入る。

コロナはこれからどれほど脅威を増すのだろうか。親しい人たち、またその親しい人たちはこれから大丈夫だろうか。

あれやこれや考えているうちに気づいた。コロナの死者数のことを、「コロナがどれだけ恐ろしいのか」を示す単なるバロメーターとして見てしまっていたことに。その背景にある悲劇には、すぐに関心が行かないことに。

そして、日に日に増えていく死者数を眺めていながら、死者を想うのではなく、我が身のこと、自分に近しい人の安全を考えてしまう。

それは当然といえば当然なのかもしれない。脅威にさらされる中で自分や近しい人のことを案じるのは人間が生物の枠の中で進化してきているからだ。何よりも大事なのは自分の命と自分に近しく関わる人の命。

でも、それでは人間として少し寂しいと思ってしまう。生物として自分を大事にするという本能を抱えているけれど、人間だけが死者に想いを馳せることができる。そんな特権を持っている。


「人間的な時間を持ちたい。」

デスカフェの当日に持っていたのは、そんな思いだった。


静かに黙祷する1分間。

生物として、自分の身、自分に近しい人の身を守るあり方から、遠くの死者を想うあり方へ。


対話の時間は終わり、日常に。TVやネット記事を見れば批判的になり、出先で誰かに会えば警戒的になることは変わらない。


それでも人間としての「特権」に浸れる時間を、1日の中で少しだけでも持っていたい。こんな世の中だからこそ。

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