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短編小説 "Belfast" 01

俺が免許を取ってすぐ乗った車はじいちゃんの形見の十何年落ちのトヨタ・スターレットだった。

長年屋根もない駐車場に野ざらしにされていたそれは年の数だけくすんでいて、雨と一緒に振ってきた大気中のほこりがこびりつき、愛知だかどこかで10何年も前に塗られた元の白よりもグレーに近かった。

田舎のヤンキー少年と成り下がった幼馴染たちがピカピカのホイールに替え、ローダウンさせた逆輸入版シビックだアコードだにウーファーでベースをブイブイいわせ走っている中、俺の車は、俺が彼らを理解できないのと同じように彼らにとって理解にできないものだったと思う。

くたびれた外見とは対照的に車の中(内装ではなく、エンジンとか。実際に内装はひどいもんだった。ビニールのシートは日に焼けて変色していたし、ダッシュボードにいたってはヒビが入ろうとしていた)は、満州で何年も戦車に乗り、戦後は米軍基地内で車輌の整備をしていたじいちゃんが乗っていただけあってきれいなものだった。

じいちゃんの死後、田んぼの倉庫脇に放置されていたこの車を形見としてもらった時、半年以上も置きっぱなしにされていたにもかかわらず、バッテリーを充電してやると、その半年なんかなかったように一発でエンジンがかかった。

俺はスターレットの加速が好きだった。

信号待ちの列の一番前から信号が青に変わった瞬間にギアを1速に入れ、引っ張るだけ引っ張りすばやく2速に入れる。2速はほんの1.数秒ほど、3速で軌道に乗せ、そこでも引っ張る。

4速に入り走りが安定した時には、もうスタートの信号から2つめの信号。真後ろのルームミラーにでっかく映っていた車ははるか彼方。

爽快としか言えない感覚だった。

あの加速をしている瞬間、俺はGを、宇宙を全身に受けて地球を離れる宇宙飛行士の気分だった。あの瞬間、俺は間違いなく「自由」を体感していた。

毎日繰り返される同じルーティーンの日常からの自由、7年も離れて帰ってきた地元でいない間にできあがっていたしがらみからの自由。田舎の蛙野郎どものしょうもないパワーポリティックスからの自由。

俺は刹那的にしろそういう自由を与えてくれるこのボロ車が大好きだった

友達に頼んで無理やりつけてもらったホンダの純正テープデッキからの音楽は後ろのシートに裸で置かれたアイワの音がでかいだけのコンポのスピーカーから爆音で流れている。

スピーカーの足元にはスケボーと安全長靴。トランクには作業服と着替え用の私服。そして、現場移動のときから載せっぱなしのボンゴシとランマー用のポリ缶に入った混合油。

俺の生活をごっちゃに載せ俺は限りなく自由だった。

俺の周りにはこの車の魅力を理解できる奴は全くいなかった。

みんなは俺がたまに乗ってくる親のセルシオやサーフの方が好きで、女の子と遊ぶ時友達は俺にセルシオに乗ってくるように言ってきた。

俺はそれでもスターレットに乗って行ったが、その時の友達の残念がるというよりも怒った顔を見て納得はしなかったけれど、ややこしいのでそういう時はセルシオなりサーフなりに乗っていくようにした。

実際そっちの方が女の子受けはよかった。

バカみてぇと思ったが、目の前の女の子の魅力には勝てず、新しくて高くてでっかいだけで何の思い入れもない車に乗って行った。

ただ、深く考えてみると自分の中での本当に大事な思い出というのはいつもこの時代遅れの車と一緒だった。例えば、俺がそれまでの窮屈な地元の輪の中から出て新しくできた音楽や趣味の話ができる友達とレイブなんかに行くようになった時、俺は必ずスターレットで行った。

確かにエアコンの温度調整はできなかったし(生ぬるい風か南極の吹雪かの両極端しかないかなりエキセントリックなエアコンだった)、4人も乗ると坂を上るのはこの爺さまには一苦労だったけど、それでも俺は自分のこの車で行きたかった。

今でもはっきりと思い出す、山の中のなんとか市民公園だの県民公園だのへの道。秋になればイノシシに悩まされるような田舎でわざわざ誰が曲がりくねった道を何十分も走って「自然」を体感しにくるんだか分からないが、レイブができるってことでは日本の税金の無駄遣いに感謝。

そのたった数時間前に真夏の現場でプラントから持ってきたばっかりのアスファルトの上で仕事している時、体感温度は軽く50℃オーバー。コールタールの分だけ濁った空気がサウナの中みたいに喉を焼き、気管の内側にネトネトとはりついた。

それが、いったん日が落ちると森の中では温度がぐっと下がり、夜だから光合成なんてしていないはずなんだけど、なぜかずっと酸素が多くなった。

吸い込む空気はとんでもなく澄んでいて、ガキの頃に10月の朝に早起きして犬の散歩をした時に吸った空気みたいだった。

すれ違う車なんかいない道を、キリンの500を片手に、俺はハイビームで走る。両脇には鬱蒼とした森、カーステではボリューム全開のデトロイトテクノ。一緒に乗っている友達とのしょうもない会話、話すことといったら30分後には着いているであろうレイブの希望的観測、今までのレイブでの出来事。

頭の中はすでにパーティーモード切り替わっている。

月曜から土曜まで仕事を軸に繰り返される日常なんか知らねぇ。今この瞬間、俺たちの頭の中にあるのは目の前のレイブ、そこで楽しむこと踊ること、たまにはかわいい女の子と出会うこと。

朝露で濡れた芝生の上に寝そべり、MDMAの流れのままに、映画や音楽、本や恋愛、これまでのこと、これからのこと、お互いの人生の物語について語り合う。膝枕とかされちゃいもしながら。

レイブに近づくにつれて風にのったベースとビートが聞こえてくる。

音はくぐもっていて風向きが変わると聞こえなくなったりするけど、会場に確実に近づいているのはわかっている。徐々に湧き出てくるアドレナミン、パブロフの犬のように。

駐車場に着く頃には音は十分に大きくなり、俺ははっきりとレイブの鼓動を感じる。森をくぐり、坂を登って会場に着くと、会場の客の、DJのバイブスが俺を包む。それが40人のパーティーだろうが、500人のレイブだろうが良いパーティーはその空間に入る時にわかるように思う。

その時その場にいるみんなの気持ちが1つになっている時、それは人数分の足し算じゃなく掛け算になる。

サウンドシステムが十分じゃなくても、ライティングが多少へぼくても、俺たちは朝まで踊りつづける。Eが鬼のようにスマッキーでよれて芝生の上に寝転がってしまっても、俺らの魂は踊っている。

音楽とともに、ビートに乗って踊っている。

やがて、日が昇り、空は端の方から赤くなっていく。
森の中の空気は瑞々しいとしかいいようがない。

一晩中踊ってふくらはぎは張ってきているし、水なんかもう全部飲んでしまったが、オガナイザーが片手間でやっていたバーはとっくに全部売り切れて店じまいをしている。店の前ではスタッフがビール片手に将棋を打っている。

帰りに山のふもとのコンビニに着くまでは水は期待できなそうだ。空いたペットボトルにトイレの蛇口から水でも入れようか。けど、生ぬるいもんな。生ぬるい水が喉を通るどろっとした感覚が好きじゃないしな。

Tシャツは一夜分の汗を吸ってべっとりだ。ケミカルによって過剰に排出された老廃物を含んだ汗は肌に膜を張っている。早く家に帰って冷たいシャワーを浴びたい。

最悪だ。
けど、最高の気分だ。

俺たちは踊り続ける。
音楽に乗って、音楽に乗られて。

音楽は俺たちを包みこみ、俺たちは自分の中の音楽を感じている。

みんなてんでばらばらのフォームで、鼓膜を通って入ってくる音楽を自分の自分だけの小節に区切って俺たちは踊りつづける。ばらばらでいて、それでいて一丸と俺たちは踊りつづける。

通る道はばらばらでも同じ出口に向かうパチンコ玉のように俺たちは進む。
何かが俺たちを導いているのだろうか?
だとすれば、どこに?

答えなんか誰にもわからない。

DJが導いてるかのように思える時もあるし、客の反応に導かれてDJがレコードバッグの中の数十枚から次の曲を選んでいるように思える時もある。

ゴアでアシッドを食いすぎたおっさんなら言うだろう。

「俺たちはみな偉大なる意思によって導かれているんだよ」と。

けど、今この瞬間そんなことはどうでもいい。

今大切なのは俺たちがこの瞬間全てから解き放たれて踊っていること。

俺たちが自分の意思で、踊っているのが気持ちいいから、踊らずにいられないから、ただ踊っていること。

喉は渇いているけど、この心地よい湿気をおびた朝の空気から肺を通して水分補給しているから大丈夫。足の細胞はマラソンランナーのように酸欠をおこして悲鳴をあげているけれど、それも日が上がり光合成を始めた木々の中にいる俺たちには無問題。

ふと周りを見ると両手を空に上げてドラゴンボールのように自然の力を充電している奴がいる。

俺たちは踊りつづける、DJが最後の曲をかけ終わり、その瞬間までフロアに残った精鋭達から他では聞けないような拍手を受けるまで。

気の利いたDJならアンコールでとっておきの朝日の昇ってしまったレイブでの本当の最後の1曲、みんながこれから2時間かけてカーステの壊れた車で渋滞の中帰らないといけないとしても大丈夫なような1曲をかけてくれるかもしれない。


02 に続く。


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