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「友人が感染した、わたしの話」

 写真はその動揺の中にいる頃にもともと下手な駐車を曲がって停めていた自分の車に、戻ったら貼られていたポストイットです。丁寧に核心を突かれて心が折れましたが、誰ともわからないこのポストイットを貼ってくださった方には感謝してます。今も車に貼って運転を気をつけてます。

 特に誰かのことを責める気持ちはないし、はっきりとした言いたいこととかも多分ないです。
 なくはないかな。でも結論のない記録の文章になると思います。病み上がりの友人に目を通してもらいました。
 よかったらお付き合いください。

 その当時の写真を挟んで進めます。

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 ・お盆が終わった頃、都会に住んでいる友人から感染したという連絡がありました。友人には重症化リスクがあり、コロナ禍になってから自転車でスーパーに行くくらいの外出しかしていなかったのでとても驚いたし、怖かったです。感染者が急増していた頃のことでした。

 ・自宅療養が始まりました。最初は友人も症状は軽く、けれど「五日目くらいから酷くなるかもしれない」ということは病院で言われたそうです。
 「おはよう。今日はどう?」「〇°。こんなもんかな?」なんてやり取りを毎朝していました。

 ・何日目か高熱が出始めて、でも下がったり。というのを聞きながら一喜一憂。本人はもちろんそうだろうし、わたしもその一喜一憂の振れ幅はとても大きなものだったと思います。
「入院できたら安心なんだけどな」というのがわたしの気持ちでしたが、その頃は入院した芸能人が叩かれるような状況で、医療崩壊が起きていた頃です。周囲の医療関係者や経験則のある人に症状を話して相談したりしていました。自分の安心のためというところが大きかったです。

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 ・わたし自身はなるべく人に会わず、この頃はスーパーも避けて食材も通販していました。一人で散歩に出たりはして。整体だけはこちらがリスクを持っているかもという状況でない限り通い続けています。

 ・九日目、突然症状が重くなりました。「息が苦しい」という友人の言葉に焦りが。救急車を呼ぼうという段階になっても無理だろう、という言葉がありました。保健センターとのやり取りは、わたしからはあまり進展が見えず。
 友人が住んでいる地域と救急車で、Twitterで検索しました。「来ない」「来ない」「来ない」という悲鳴のようなツイート。動悸が始まりました。
 結果パルスオキシメーターが故障していたようですが(翌日交換になった)、「それはもうかなり危ないのでは」という数字が出ていました。
 その連絡をもらったとき、わたしは整体院の前にいました。予約時間で、車の中にいました。レスポンスが来なくなったので、この途切れた連絡の向こうで亡くなってしまったのかもしれないという恐怖の中にいました。
 一人でいるよりはと、整体院に入って先生に「どうしたの?」(と言われるような顔をしていたんでしょう)と尋ねられたので、事情を話しました。
「今日はやめておく?」と訊かれ、「いや……何もできないもんだなとは、友人が感染した時から思ってました。スマホ開いたままにしていてもいいですか?」と、スマホを開いて時々気にしながらやってもらいましたが、当たり前ですが体は硬直していて「取り敢えず人といてもらった」という時間となりました。

酸素は本当にがんばってもどうにもならないとも改めて知りました。スポーツ用のスプレーの酸素を検索したりしていましたが、きっとほとんどこのケースでは気休め程度だろうに高額で。けれどこうしたものにお金を払ってしまう気持ちもよくわかりました。

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 ・「息が苦しい」から二時間連絡が途絶え、「これはもう」と自分の心理的には恐慌状態でした。二時間後、連絡がありました。心から安堵しましたが一旦荒れ果てた気持ちが戻らず、何を見ても憎かったです。パラリンピックをやっていたので、それも憎い。中止になった公演に対して声をかける人の言葉も憎い。予防しない人も、コロナは風邪だと言い張る人も反ワクチンの人も。何もかも憎い。

 ・眠りは本当に大切です。分けて考えないと自分が偏った一方だけを見たり憎んだりして一生を過ごす可能性があると、朝には思いました。パラリンピックはパラリンピック。公演は公演。陰謀論にまではつきあえないけれど、それぞれの「そうじゃないと生きていけない人生」があるのだから憎んではいけないし、自分がこの先生きていけない。
「一つ一つ分けて考えよう」
 朝起きて思いました。
「友人はこんな状況なのに何故オリンピックやパラリンピックをやっているの?」
 別々のことをそうまとめて考えると、どんなことでも引き寄せて考えられてしまいます。
 無関係かもしれないことを引き寄せて憎むのをよそう。と決めました。

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(2020年3月の写真)

・一方で一つ痛感したことがありました。
この状況が始まった時、SARSを経験している台湾の友人が、
「何を失ったって命があれば何でもできるよ」
と言いました。2020年の3月、まず劇場やコンサートイベントが中止になり、飲食店が困窮し始めて、経済のことにわたしが囚われていた頃です。
そしてその少し後に津波の被害が大きかった地域の友人に、
「震災の時よりひどいって、商売の人は言っている」
と言ってしまいました。これは本当に考えのない言葉だったと今も後悔しています。彼女はご遺体が積みあがっている地域で、閉じ込められるような形で長く過ごしました。今でも湯船に入れない友達がいるとも聞いていたのに。
「震災の時よりひどいことなんてないよ」
彼女は言いました。
うっかり酷いことを言ったことはその場でわかりました。
けれど、二人の言葉が実感を持ったのは、「友人を亡くしたかもしれない」と震えていたこの時が初めてでした。
頭ではわかっているつもりでも、実感はできていなかったと知りました。

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 ・「おはよう。今日はどう?」に全く返信がなくなりました。この音信不通、わたしからすると丸一週間にわたりました。入院できたならいいのだけれど、病床がなかなか空かないことは散々言われていた頃なので最悪の想像もしました。
「次に会った時は骨壺だった」という話をよく目にしたので、骨壺の想像もしました。
「最後に会ったのいつだろう」
 今更の説明ですが、ぼちぼち三十年来の友人で、たまに会津にもきてくれていたし、わたしが都内に行くときは一緒にごはんを食べていました。
 感染する一週間くらい前にわたしの方が濃厚接触者状態になっていて、朝散歩をしながら電話していました。帰宅しても電話して、多分七時間くらい電話しました。
 しょっちゅうじゃないですが、二十代の頃からそうやって長い時間電話したりします。深刻な話もするときはあるけれど、たいていは雑談です。
「え? あれが最後なの?」
 なんの準備もできていない。多くの人が経験したことだと思います。

 ・疫病というのは厄介で、無闇に人に「誰が感染した」とは話せないです。けれど友人の近所に住んでいる方と繋がっている仕事先の方を頼って、
「何かあったら教えてください」
 とお願いしました。
 後は毎朝、
「おはよう。今日はどう? しんどかったら返事はいいよ」
 と、連絡をしていました。迷惑かもしれないし虚しかったですが、やめることが精神的に無理でした。あきらめたことになると思っていたのかなと、今思いました。

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 ・連絡が途絶えて丸一週間、言ったら生死がわからず。けれどさすがに亡くなっていたら連絡がくるだろうとは思って何度も気を取り直しましたが、左半身に見たことのない蕁麻疹が出てきました。また整体に行くと、
「これはもう内側からやられてるから無理だよ。休むしかないよ」
 そう言われました。
「すごいな、コロナ。感染した人だけじゃないね、コロナにやられるの」
 わたしの居住地域では感染者ゼロ人の日も多く他人事感を持つ方も多い中、整体の先生が親身になってくださったのが救いでした。
 他人事感の方とは、この時期は話すのは難しかったです。
 ただ、その他人事感の方ももしここを読んでいたとして伝えたいのは、だからと言ってわたしは分断されたくないです。
 反ワクチンの方、コロナに脅威を感じていない方とは、わたしは感染がとても怖いので物理的な距離を置きたい気持ちはあります。
 だけど、突然そんな命に関わる選択を我々が迫られている理由は、covid-19理由に他ならない。疫病がわたしたちに「ある程度はリスクのあるワクチンを接種するか」「しないか」という選択を迫っている。
 接種してほしい、せめてリスクを踏まえて接種する人を否定しないでほしいという気持ちはありますが、かといって今まで縁のあった人と疫病によって迫られた大きな選択を理由にわたしは別れたくないです。
 震災の後、そういう別れがたくさんありました。
 震災と疫病。どちらも始まった時は、人知の及ばない天災だったはずです。

 ・ところでわたしは仕事をしています。友人の行方がわからなくなった頃、一つの小説を書き終えなくてはという時期でした。
「万が一のことがあったら教えてください」
 とお願いしていた人に連絡しました。
 今もし、友人に万が一のことがあったら、わたしは間違いなくこの原稿を落とすだろう。それは誰も幸せにならない。そう思い、
「もしものことがあっても、わたしが仕事が終わったという日まで教えないでください」
 そうお願いしました。
 極限状態です。
 もしものことがあったら、しばらく仕事を休もうと決めました。

 ・四十年の付き合いになる幼なじみと電話をしていて、もしものとき、けれど何もかもを原因に引き寄せて憎むような生き方をしないと今から決めておかないと、その方向に流れてしまうから。
 というような話をしていました。
 けれど話している途中で、
「無理だ」
 と突然立ち止まりました。
 理性でなんとか乗り越えようとしているけれど、感情は理性を簡単に凌駕する。特に今回はどうにもならない。
 休むしかないと思えていたのは、理性かもしれません。
 睡眠はまるでコントロールできず。「よく眠れる乳酸菌飲料」に八つ当たりをしたりしていました。あの時期は乳酸菌にどうにかできるものではなかったので、申し訳なかったです。

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 ・「ICUを出た。スマホに触れなかった」
 連絡がありました。連絡が途絶えてから一週間以上経っていました。
 その時の感情は表現できないです。嬉しいとかそんな言葉ではない。
 もう生きててくれればなんでもいいと思えました。
 
この先またいろいろあるかもしれないけれど、今も「生きててくれればなんでもいい」です。

 命に代えられることは何もない。
 体感して、痛感しました。

 笑い話みたいに受け取られるかもしれないけどそうではなく、
「ああよかった。さて」
 と日常に切り替えられるようなことではなかったので、
「天岩戸の外の天鈿女命レベルの何かが必要。祈祷とか何かそういう」
 YouTubeで「ダンス」で検索して踊りました。
 身体的に激しい儀式をしないと切り替え不可能の、「よかった」でした。

 命に代えられることは何もない。に相反するようですが、一回目のワクチンを打つ前に遺書を書きました。この場にも自分の思いを明記しておきます。
 ワクチンは無害ではないかもしれません。不安を持つ方の気持ちもわかります。副反応も大きいようです。
 けれどワクチンなしで集団免疫を得る日には、ワクチンによる弊害の何倍もの方が亡くなるのではないでしょうか。
 わたしはまったくの素人なので何も断言はできません。
 素人ながらもワクチンが理由で亡くなる方がいるというのは、恐らくはあり得るだろうとは思います。どのワクチンでも、異物を体に入れるのだから何かしらのリスクはあるでしょう。
 そのリスクを得る一人に自分がなってもいいのかと問われた時に、もちろん嫌だけど、それでも大勢の死をもって集団免疫を獲得する結果にならないためには自分が死んでも仕方ないと思っていることを、書いておきます。

 もうすぐ二回目の接種です。ワクワクはしていません。あ、でももしかしたら遠出ができるようになるといいなとは思ってる。
 大きな選択を迫っているのは、人ではなくcovid-19。
 とんでもない有事を生きているので、大きくなる感情の矛先を見当違いな方角に向けていないか、何度も立ち止まってよく考えていられるように、努力します。
 大きめの努力ですがそこはがんばります。

 わたしの話でした。

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