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何を伝えたいのか。何を書きたいのか。。。

あーしたい、こーしたい、とnoteの記事に書いているにもかかわらず、記事の数が上がらないのは、全部下書きに置いているからです。

実は、毎日のように文章を書いては消し、書いては消し、新たな下書きを追加する、なんてこともある。

「書きたい」という気持ちはブレていないんですが、書くことで自分が空回りしていることに気付き、結局公開しない、を繰り返しています。

なぜ、空回りしていると気付くのか。

それは書いた文章を読んで、もう一度改めて読み返したときに気付く一貫性のなさです。

内容の一貫性ではなく、「気持ちの一貫性」。

最初は「こんなことを書きたい!」と思って書き始めるのに、途中から、ただ文字を連ねているだけのように見えてしまうのです。
指がただ動いているだけの言葉、みたいな感覚といえばいいでしょうか。

自分が読んでいても、そこに「楽しい」という感情が感じ取れないのです。

最初は自分の今の精神状態、特に仕事上で様々な問題を抱えており、今の世間の雰囲気も相まって、気分的に落ちていることも一因かと考えました。

本当にそれだけだろうか。

毎日noteの下書きの山を目にして、新たに書きたいことをテキストに書き始める、ということを繰り返していたとき、毎日のように見ているダッシュボードの数字を、仕事目線で見てみようと思いました。

・・・どの記事が読まれていて、どの記事が読まれていないか。

結果は如実に現れていました。

とにかく「○○したい!」「伝えたい!」と勢いよく公開した記事は、今でもアクセスが多く、思いつきだけで書いた記事は全然上がっていません。

自分が書く記事への熱量って、リアルに伝わっているんだ、と思う一方で、自分の中では熱量があると思って書いたものでも、全然読まれない記事がどんどん増えていきました。

ただ純粋に書きたいと思って書いたものでも、もしかして狙って書いてる?と思われたのかな、とか。

特に最近、仕事で調査・分析することが楽しかったので、その思考によってるのかな。。。

などなど、自分の読まれる記事と読まれない記事の傾向分析をしてしまって、凹んでいる。

そこから、書いていくうちに、「楽しい」よりも「自分の気持ちを整理」して、後から読み返した時に、同じ過ちをしないように、忘れないように残しておきたいがために書いているんじゃないか、そんな気がし始めました。
感情の吐き出し口をnoteに求めている、一種の依存のような感覚

こんな記事を読みたいと思う人がいるのでしょうか。

と自問自答を繰り返していたところ、以下の記事に遭遇。

これでいいのか。

自信がなくてもとりあえず公開してみよう、そう思った時になぜか涙が出ました。
(今涙を浮かべながら、この記事を書いています)

お笑い番組を見て、ただ面白いから笑う。
それと同じ感覚でいいであろうことを、深く考えすぎて煮詰まったという。

なんとも情けないオチがついたところで、下書きの山を整理していこうと思いました。


ご精読、ありがとうございました。

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