見出し画像

非科学的精神によるなし崩し的五輪開催 

「非科学的精神を離れ、新たに客観的、科学的発想や思考を持つ日に変えることにより、更生日本の門出の日にせよ」――。石橋湛山元首相は敗戦を迎えた昭和20年8月15日を、こう位置付けた。
 
 あれから80年近くが経過した今でも、東京五輪開催を巡って、科学的発想や思考とは真逆の政治を目の当たりにしている。
 
 期待された尾見茂氏をはじめとする専門家の提言も五輪開催ありきのものになってしまった。理由としては「もう止められないから、五輪開催の是非を論じても意味がない」というものだった。
 
「無理が通れば道理が引っ込む」――。今、日本で起こっていることだ。
 
 厚生労働省のアドバイザリーボードに提出された専門家のシミュレーションを見るまでもなく、五輪開催によって感染が拡大し、重傷者が増え、死者が増加するリスクが増大する。しかし、国会で「死者増のリスク」を質しても「安心安全の五輪」とのお決まりのフレーズを繰り返すばかりだ。
 
 死者増のリスクが大きくなることすら認めない政府の姿勢は非科学的精神そのものではないか。
 
 本来、東京五輪を開催するには、このリスクを上回る開催の大義がなくてはならない。それは一体何なのか。

 加藤勝信官房長官が記者に問われて答えた開催の理由は3つあった。「スポーツの力を発信すること」「震災から復興した姿をお見せすること」「新型コロナを克服し世界規模の課題を解決する能力を示すこと」としている。

 これが、命を犠牲にするリスクを上回る大義とは到底思えない。五輪開催延期を模索し、それが叶わなければ中止をし、ヒト・モノ・カネをコロナ対策に集中すべきである。そして、この秋には普通の日常を取り戻すために全力を尽くすべきである。
 
 本来、あるべき議論は
 
1. 感染対策を最大限施した上で五輪を開催した場合でも、感染増リスクと死亡増リスクはどの程度あるのか?科学的発想や思考に基づいて政府の見解を公式に発表する。
 
2. そのリスクを上回る開催の大義を国民に示す。その大義が国民に受け入れられない場合は、延期か中止に進む。
 
3. まず、五輪再延期について各方面とギリギリの交渉をする。契約面、金銭面等の情報を開示する。
 
4. どうしても延期ができない場合は、中止を要請する。同時に金銭的負担額も開示する。
 
 五輪開催によって感染が拡大し死者が増加した場合、責任がうやむやにされることは今から容易に想像できる。「もう変えられないから」と敗北主義に陥ってはならない。私たちは、非科学的精神の中に沈殿したままであってはならない。
 
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?