ずきずき

渓谷の、初心者向けのロッククライミングで擦り剥いた手の傷がシャワーで少し痛む。
インストラクターは無口にタバコを吸いながら、私の命綱を下の方で握っている。ロープはたびたび弛んで心もとない。けれども二十メートルほど登ったところで後に引くのも癪で、知るものかと岩壁の引っかかりを懸命になって探す。
そのときに擦りむいた傷が意外にも長引いている。激しい日差しの下では治るのも遅いのだろうかなと思う。旅行から帰って、焦げ茶に焼けた肌が黄色くなりはじめる頃には、すっかり忘れてしまっているに違いない。
インストラクターはユセフという三十歳くらいの男で、これまでにも、ユセフと名乗る男には五人以上会ったことがあり、アブドゥールとは二十人以上だと思う。
ユセフは、普段は無口だが酒を飲むと陽気になってカマッテチャンになる。
酒に酔った彼が家に戻ってくると、冷めた表情の恋人に彼は愛を告げ、恋人はまた始まったかと無視をする。それでもなおユセフが近づくと、恋人は玄関から外に出て、星空の下の深い渓谷へ向かう。彼は毎晩、彼女のあとに続く。
恋人関係というのを端から見ているとバカバカしいと思う。「嫌いも好きのうち」という金言を、意識してなのか無意識なのか、攻めにも受けにも巧みに駆使して関係を続けている。
別れちゃえば良いのにと思うのはまったく他人の勝手で、当人たちは同じ檻のなかで特別な関係というのを日に日に頑強に拵えていっている最中だ。丁寧に育めば立派なものが築けるだろうけれど、見逃した僅かなほころびが後々に重大な欠陥となって倒壊、ということもよくある。
それだから一層に、私たちはきっと違うと、特別な意識は燃え上がるばかりだから手のつけようがない。
私はというと、日本でコンビニへ行くのと同じく、おもての屋台にサンドイッチを買いに出掛け、すぐに安宿の部屋へ帰ってひとり黙々とバカみたいな顔をして夕食をとっている。外国でもすることは変わらない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?