のどちんこ



 ぼくにはのどちんこがない。ずいぶん前に切除したのだ。いや、実際に切除したのはその周辺の扁桃だから金玉がないと言ったほうがより正しいのかもしれない。どちらにせよ、ぼくは喉において去勢されていると言ってもいいだろうと思う。

 なぜそんな大げさな手術をしたかと言えば、進学のために上京した先の学生寮がひどく空気の汚いところで、毎月のように喉を腫れ上がらせて高熱を出していたためだ。

「頻繁に扁桃炎で高熱を出すようなら切除することもできます」

 お医者がそう言ったので、ぼくは翌月に扁桃摘出手術を予約した。

 たしかに手術以降は高熱にうなされることはなくなった。けれどもたったひとつ残念なことがある。ぼくは高熱特有の悪夢をそれほどには嫌っていなかったのだ。いや、むしろ好いていた。

 そんな悪夢には決まって同じ場面があらわれる。幼いころから変わらない夢だ。

 ぼくは丘の上のお花畑みたいなところでスキップをしている。地上の楽園のような場所だ。そこへ突然、いくつもの隕石が降りしきる。ぼくは逃げ惑うのだけれど、夢特有の水中を走るような具合でまったく遠くへ逃げられない。それでも間一髪のところで隕石を避けられている。そんな場面が無音で永遠のように続くのだから、きっとこのイメージを他人が見たらサイレントのコメディ映画を鑑賞しているように笑い転げてしまうのではないかなと思う。けれど、夢を見ている当人は汗だくになってうなされるのだ。ようやく目が覚めても、夢と現実との境もわからなくなってママンに抱きついたりしていた。

 今にして思えば、ぼくがその悪夢を好んでいたのは、そのママンの抱擁を含んでのことだったからなのかもしれない。

 とにかく、ぼくはもうずいぶん長いあいだ、平熱の日常を送っている。まわりに迷惑をかけることもないし、ぼく自身も健康がつづいているのだから不満もない。ないはずなのになんだか退屈に思えてしまうのは贅沢な悩みだろうかな。けれども、やっぱり時には大波に乗って浮かれてもみたい。それが過ぎた後に、どん底を味わうような虚脱をも感じてみたい。凪いでばかりでは、人生を謳歌しているようには思えないのだ。

 そう考えるようになってから、ぼくは少々酒を飲みすぎた。睡眠薬を半錠噛んでアルコールにふけった日々もある。奇妙な浮遊感は悪夢に似ていて面白かったし、抜けた後の虚無感も味わった。けれどもそれは疑似体験でしかなくって、裏ではいつも本寸法の高熱を求めていたのだ。

 のどちんこはそれを体感させてくれる装置だったのだときっと思う。そうして、いまも変わらずにぼくの内には波のうねりが絶えなくて、それはぼくに知れずそっと、けれども大自然の猛威をふるって、荒れに荒れているはずなのだろうと思う。それが表出されないのは、それを実感できないのは、きっとのどちんこを切ってしまったからに違いないのだろう。

 ぼくはときどき喉をさすってみる。いがいがも痛みもなにもないのに、失ったものの痕跡を愛撫する。自然の荒波と、抱擁する大海をそっと思いだしている。


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