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【独身成仏1】〜独りでも死ねます〜

『リトルブッダ』という映画を覚えているだろうか?仏教における輪廻転生をテーマとした作品だったが、詳細はほとんど忘れてしまった。ただ、映画の終盤で描かれたある一連のシーンについては、以来ずっと忘れることがなかった。ひとりの老いたラマ僧が死に向かう場面である。

そのラマ僧は、自分の死期を悟るとお堂に篭って深い瞑想に入り、座したまま息を引き取った。

長年修行を積んだ高僧であれば、何日間も、ときに10日以上という長期間にわたって瞑想が続けられること。澄み渡る山のごとく座して動かず、海のごとく深く瞑想し、そのまま自身の意思に従って淀むことなくあの世へと入っていくことができる、という話だった。

自分の死期を把握し、その瞬間までをコントロールすることは可能なのか。修行によって人は、こんな風に死んでいくことができるものなのか。ラマ僧の死は、私が知っていたどんな「死」とも違っていた。当時はまだ中学生という「死」が遠い年齢だったもかかわらず、私は強く惹きつけられた。あれから30年が経過した今も、ラマ僧の死よりも印象的な(または魅力的な、とでも言うべき)最期には出会っていない。

ただ、あくまでもこれは映画の中での話である。いくら修行をしたラマ僧でも、死ぬまでに10日間も瞑想すれば、その間には何度もトイレに行きたくなるだろうし、睡魔にも襲われるだろう。だからこれはフィクションで、映画には描かれなかった部分があると考えるべきだろう。いや、それとも本当にあのラマ僧は、鍛錬によって得た特別な能力によって座したまま枯れ落ちるように死にゆくことができたのだろうか。私はその答えを知りたいと思う。そして自分の死がどのようなものになるのか、そのために準備できることがあるのかを、今この時点である程度まで見極めておきたいと思うのだ。

40代の半ばという年齢は、「死に方」を検討するには早すぎるという人もいるだろう。あるいは、多くの人にとってそのようなものは検討すること自体が間違っていて、何歳であっても触らずにおくべきことなのかもしれない。ただ、そうした一般論はさておき、私は二つの理由から現時点における自分なりの答えを探すことにした。一つは私の個人的な境遇よって、もう一つは日本の社会的な要請により、この問いを放っておくわけにはいかなくなったのだ。

私は独り身で、子どもはいない。二人の姉がいるがどちらも独身のため、甥や姪もいない。したがって、もしも年齢順に寿命を迎えた場合、私は両親を看取り、姉たちを看取り、一家の最後の一人として生き残った後に独りで死ぬことになる。その死は、私がこれまでに経験した誰の死とも違う、知っている限りのどんな死とも違うものになるだろう。

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